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101年目の岩波書店

 昨年末、「首都圏労働組合特設ブログ」にて、岩波書店社員の金光翔氏が「岩波書店の社長交代劇と岩波書店の今後」という記事を書いていた。最近の同社の経営状況について、社内組合の「団交ニュース」などを用いて論じていたのだが、その部分がその後、削除されてしまっていた。以前から金氏による内部告発には、会社側から圧力が加えられているので、今回の動きもその一端ではないかと思われる。
 ただし、削除された部分については別のブログが、一部標題などを付け加える形で転載していた。なお、転載先では金光翔氏は既に解雇されたことになっているが、これは間違いであろう。

 ところで私は、岩波書店の経営危機が、転載先の執筆者が述べているような「天誅」だとは考えていない。
 金氏もしばしば指摘していることだが、現在の日本のリベラルの議論というのは、根本的な部分で保守派と価値観を同じくしてしまっており、それを何やら保守との「対話の可能性」を開く行為と勘違いして、ますます自壊を続けてズルズルと思想的滑落を続けている状態にある。従って、それならばいっそ保守派の議論を読んだ方が手っ取り早いのである。岩波書店の編集者が好むような議論に需要が無くなるのは、必然的な結果である。
 この場合、保守化しているのは実は読者ではなく、書き手と編集者である。岩波書店という企業がひざまずいて首を垂れる対象は、保守派の思想というよりも、誤った編集/経営方針による言論市場での淘汰の法則に過ぎない。

 いま一つ、岩波書店の近年の動向で筆者が感じているのは、いわゆる「講座」や全集系の、シリーズ書籍がやたらと増えてはいないかということである。出版目録を調べたわけではないので、あくまで感覚的なものなのだが、創業100周年にして経営危機下にある岩波書店が、これほど大部のシリーズを乱発するというのは、いったいどういうことなのだろうか。

 たとえば「創業百年記念出版」として出版される『岩波講座 日本歴史』は全22巻であるが、これは予約出版制をとっており、全巻予約申し込みをしないと買えないもののようだ。
 普通に考えれば、一冊3200円+税のシリーズものの書籍を全巻購入する人など、ほとんどいないだろう。しかし、全国の公立図書館は3200館強、大学図書館は1600館強あるので、これらの図書館の約半数が購入するだけでも、2000セット以上は確実に売れるのである。それならばかえって、最初からさばける数が読めている分、商売としては成立しやすいだろう。

 もちろん個人購入ではなく、図書館で読まれるために販売される本自体は、あっていい。高額な辞典類や専門書は、むしろそうした形で図書館に蓄積され、再販が無かろうとも必要に応じていつでも参照可能になっている方がよいだろう。
 ただし、専門書にそのような価値が生じるためには、本来そこに掲載される論説が、その時代の学術の動向や水準をしっかりと反映したものになっている必要がある。四半世紀前に出た学術書の議論は、その後も着実に考察や分析や実証データなどが蓄積されていくような領域であれば、いずれアクチュアリティは失われようとも、研究史的な観点から、ある時代の傾向を読み解くために参照されるようになるだろう。従って、様々な論者を集めて、あるテーマのもとに複数の論説を掲載する「講座」や専門書のシリーズは、それぞれの分野での議論の水準と定説とを、適切にまとめたものであってほしいものだ。

 しかるに、近年の岩波の論集は、とてもそうは読めない。以前に「シリーズ戦後日本社会の歴史」を取り上げたが、このシリーズに限らず、編集者が知人の研究者から数人の編者を選び、その編者からネズミ講式に即席で筆者を集めたのではないかと思えるような、出版社としての編集方針の見えない、杜撰で統一性のない論集が目立つ。これらは、ほとんどサークル会誌のようなものである。サークル会誌ならサークル会誌として出してもらえれば、ある特定のグループの議論として傾聴することもできるが、それが「講座」のような形式で出るのは問題であろう。
 しかしながら、全国の図書館は当面、岩波書店のシリーズものの専門書には、一定のブランド的な信頼感をもって購入を続けるであろうから、このような杜撰な編集の産物であっても、前述のように商売としては、おそらく成立するのである。
 こういった論集が図書館に所蔵されて、ある一時代を代表する論集として後年まで保存されるとなると、それは書架と購入費の大いなる浪費にならないだろうか。

 無論、後年の読者がしっかりと、この時代の岩波の論集はアテにならないという知識をもって読んでくれるならば、これは杞憂に終わるのだが、それはそれで「岩波100周年」が汚辱に満ちた歴史の一コマとして記憶されることになるだろう。



(2014.1.25.追記)
 「講座」系シリーズ書籍のもう一つの市場として、大学等研究機関の研究室もあるだろう。どの分野であっても、現役の研究者であれば、専門領域の現状に、たえずアクセスしておく必要があるから、新たに出た類書には目を通すことになる。よって、その書籍の質の如何にかかわらず、一定の需要が生ずるわけである。図書館と並んで、安易な企画でも買ってくれる(買わざるを得ない)という社会的な性格につけこんだ、非常に足下を見た商法ではないだろうか。
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行動する自己愛

 少し前のことになるが、ドキュメンタリー映画『チェルノブイリハート』を見る機会があった。結論から述べるならば、控えめに言っても大変違和感のあるドキュメンタリーであった。
 本作の監督であるマリアン・デレオの振舞いには、ドキュメンタリストとしての社会的な立場という点で重大な欠陥があり、その割に情報や提言という意味では、さほど有用なものは見られない、ただ凡庸な視点で構成された作品だと思う。
 本作には、カメラに映し出される対象に対して自らの立場を問い直すような自省的な姿勢が見られないし、また対象そのものに寄り添う――「寄りかかる」という意味ではない――生活誌的な視点もない
 本作で強調されて(しまって)いるのは、いわゆる「行動するジャーナリスト」としてのデレオと、彼女によって対象化される障害児たちの姿、ただそれだけである。
 冒頭から違和感はあった。前情報を得ていなかった私は、東欧を主たる舞台にするこの映画が始まったとき、取材者の間で交わされている会話の言語が英語であること自体に驚いたのである。遅まきながら、入場時にもらったチラシを上映会場の暗闇の中で見直してみると、確かに「アメリカ映画」、「アカデミー賞受賞作」と書かれている。
 ならばこの監督は異邦人として、チェルノブイリの原発事故の後を生きる人々に、どう向き合うのか、その姿勢が問われることになる。この点で、本作は大いに失望させられるものだった。

 デレオは、体内被曝した障害児たちが暮らす施設を訪れたとき、看護士がぞんざいに子どもを扱ったとして、「もっと優しく扱ってあげて」と再三にわたって注意を促す。看護士はしまいには気分を害して、その子はもう成長しないのだからと言い捨ててその場を去っていく。この場面だけを見れば、その障害児は、悪しき介護環境に捨て置かれているように見える。政府も社会も、そしてこの看護士も、ただ酷薄にこの児童に接しているように見える。
 だが、デレオは異邦人である。デレオがチェルノブイリの取材を始めたのは、2002年ということだった。そしてこの映画は2003年に公開されている。彼女は写真やメールなどで、確かにこれらの児童たちのことを知っていただろう。だが、この施設の看護士たちは、あるいはそれよりずっと前からこの障害児たちに接しているのかもしれないのである。それもおそらくは、決して治癒しないことを知りながら。
 根治しないことを知りながら行う看病というのは、やるせないものである。無力感は投げやりさにも繋がる。
 一方、たまさかにやってきたジャーナリストが、日々その対象に接している看護士よりも多くの愛情を注げるのは当たり前のことだ。日常的に付き添っているわけではないのだから。そのことについて、このシーンはあまりに鈍感である。取材でしか対象に接しえない自らの立場に自覚的であったら、このような構成には決して出来ないだろう。それは看護士の恥ではなく、自らの恥を映したシーンに他ならないからである。
 同じようにデレオは、アルコール中毒の両親のもとで暮らしている子どもにもカメラを向ける。父親が撮影をしないようにスタッフを怒鳴りつけるので、彼女たちは少しだけカメラを回してその家を去るのだが、その後のデレオの言葉には、カメラを向ける自分たちへの内省はうかがえず、代わりに子どもの生活に対する憂慮だけが見られる。

 いま一つ失望させられたのは、先天性の障害に関する治療を受けた少女に、デレオが「アメリカ人の医師に感謝ですね」と声をかけるシーンである。いったいこの発言は何なのだろうか。彼女には執刀医の国籍が重要なのだろうか(患者にはそのようなことは問題ではないだろう)。それともこれがアメリカで上映(ないし放映)されるドキュメントであるがゆえのリップ・サービスのつもりなのだろうか。
 そもそも、なぜデレオはアメリカの原発ではなく、チェルノブイリを選んだのか。国境を越えた普遍的な視点から見ているのだとは言えないはずだ。ならばなぜ医師の国籍を口に出す必要があったのか。

 いったいデレオは原子力発電所を抱える自国について、どう考えているのか。デレオの来日を報じたニュースには、彼女が「現実問題として原発を全廃することは難しいのでは?」と語ったともある。するとデレオは、事故が起こらず、たとえば胎内被曝によって先天的な障害を背負った子どもたちが生まれてこないような原発の運用ならば認める立場ということにならないだろうか。
 この立場は私には馬鹿らしく思える。原子力発電に限らず、絶対に事故やミスの起こらない技術運用のあり方を想定するのは、はたして「現実」的なのだろうか。試しに原発とその関連施設で働く人々――下請け労働者だけでなく技術者や、電力会社の経営陣も含め――にそう説いてみるといい。どんなに誠意があって善良な職員であっても「出来る限り努力いたします」という以上の答えは出来ないだろう。逆に、どんなに不誠実な職員でも「故意に事故を起こしてやろう」とは考えないはずだ。
 結局のところ、事故を起こさないで欲しいというような議論は、自分が原子力発電の作り出す社会的なシステムの外部にいる(と錯覚している)からできるものであって、これ以上「現実問題」から遊離した立場はない。

 マリアン・デレオのプロフィールを見ると、彼女はドキュメンタリー映像作家として、これまでもレイプ、ホームレス、薬物中毒などの問題に取り組む一方、湾岸戦争下のイラクにも取材に赴いているという。特にイラクからは未検閲の映像を持ち出して物議をかもしたとあるから、自国のイラク政策に対して従順ではない(つもりである)のかもしれない。
 だが、チェルノブイリ周辺の児童たちを扱うデレオの手つきからは、他国の「人権侵害」を非難することばかりに血道をあげる人道的介入論の親類のようなロジックしか感じることができなかった。デレオがアメリカ人であるという立場から被曝障害児たちが置かれた現状を批判する一方で、わざわざアメリカ人の行為として医師の活躍を賞賛するとき、そこにあるのは「国際的連帯の精神」などというものではなく、ただアメリカという国家の手がチェルノブイリの事故被害の収束にも一役買っているという形の印象の提示である(注1)。これは当の医師たちの意図にすら、かなっているかどうか怪しいし、アメリカのイラク政策に対する批判という立場とも、本来的には矛盾するものだ(注2)。
 デレオ自身はアメリカのジャーナリストであって、チェルノブイリ周辺の住人でもなければ、それらの人々を治療する医師でもない。障害児たちにデレオが示す愛情や同情は、このドキュメンタリー映画を通してスクリーンやモニターの前の鑑賞者たちにも共有されよう。だがそれは決して当事者のそれではないのだから、せいぜい赤い羽根共同募金よりは、やや具体性のある共感の共同体を一時的に作るに留まらざるをえない。そこから踏み出すには、何よりも自分たち自身を取り囲む状況へと問題を投げ返す必要があるのだが、この作品にはそれがない。アメリカでは核関連施設から放射能が撒き散らされたことなど全くないといでも言うのだろうか。
 作品が収まるべき上映/放映の尺の問題があるのだと言うかもしれない。だが私に言わせれば、現地の児童たちを冷遇する親や看護士たちを一方的に告発するかのようなシーンは、自らが抱えているはずの問題を語るよりもずっと無駄な時間である。
 あるいはまた、この描き方は、何よりもアメリカで作品を公開するために必要な方便なのだと言うかもしれない。これは最初の弁明よりは考慮に値する。アメリカは、ジャーナリストが発言するにあたり、そこまでの苦衷を強いる国家であると言うならば。しかしそうすると、このジャーナリストは一体何と格闘しているのだろうかという疑問も生じる。わざわざ異なる言語を用いる地域に足を運んで、体内被曝した障害児たちの実態を暴露して見せる前に、自国ですることがあるのではないだろうか
 同じように、今現在、本作を上映している日本人たちの行動についても、考えねばなるまい。我々はなぜチェルノブイリの痕を見て学ぶなどと言えるのか。

 ここで思い浮かぶのは、80年代の反原発ムーブメントのことである。スリーマイルとチェルノブイリの相次ぐ事故を受けて、この運動は結構な盛り上がりを見せたと記憶している。そこにはもちろん、優生学的な物言いなどの問題もあった。しかしそれとともに問題だったのは、要するにこうしたムーブメントが外的な事件によってしか隆盛しなかったのではないかということである。
 我々はなぜ、チェルノブイリやスリーマイルやラ・アーグなど、海外の核施設の事故を問題にしてきた(いる)のか。我々の国に原発があるというのに。そしてそれらが、イレギュラーな事故を日常化させてきたというのに。
 外部で事件が起こらないと内的な問題に気付けないというこの日本社会の言論状況は、戦争責任論や植民地支配責任論をめぐるそれと、ほとんど相似形をなしている。結局のところ外的な力が働かないと、想像を巡らせるということすらしないのである。
 従ってそれに対する言い抜けも、あらかじめ用意されている。戦争/植民地支配責任論に対する否定的な応答が、現在の相手国の「人権問題」や外交関係を担保にしてなされるように、他国の核施設の事故に対する応答も簡単に済ますことができる。ソ連は独裁的な全体主義国家であったから、アメリカは軍産複合体が核開発を手ばなさないだろうから、だから日本とは違う。このように言ってしまえば、もう問題は他人事になるのである。憲法九条があるのだから、と付け加えれば、もう一切の不足はない。むしろ他国の原発事故を見ることによって、結局は日本国内の原発に対する安心感が高まるのである(注3)。
 この映画を通して日本人が原子力の脅威を日常的に意識するようになるとも思えない。この映画自体の欠陥も、また他国の事故を通して学ぶという姿勢それ自体の欠陥も、そのような効果を保証していないどころか、全く正反対の結果をもたらす可能性すらある。

 色々な映画があってよい、という意見もあるだろう。だが本作は、果たして多様な見解の一つに数えられて良いかすら怪しい。デレオの提示しているのは見解というほどのものではなく、ただ行動する自己愛ではないのか。それはついに、自己の批判的点検には至ることのできない類のものだ。原子力発電のシステムの中に住む我々にとって、それは有効な態度だろうか。
 我が国の核政策をめぐる問題――原子力発電に限らず――を自ら抉り出すことができなければ、「脱原発」など、四半世紀前のムーブメントと同じく、所詮は尻すぼみに終わるだろう。



(注1)あるいは「ロシア人やウクライナ人には事実を報道するような自由すらないだろうから」などという意見があるかもしれない。だがそのような認識は、「報道の自由」を備えたアメリカに核被害の否認や遺棄といった問題など存在しないと、多くのアメリカの一般市民に錯覚させ、また安堵させる結果を招くだけである。
(注2)もっともイラク戦争に対するデレオの立場が、たとえば劣化ウラン弾の使用に特化した批判しかしないというものならば、彼女の中では一貫性があることになるが。
(注3)このように考えないとすれば、それは原発に対する価値判断があらかじめ決まっているからである。だがそれならば、なぜわざわざ他国の事例を通してそれを言う必要があるのか。

テーマ : ドキュメンタリー
ジャンル : 映画

頭上の蝿を追え

 日本において、軍事行動から言論活動まで様々な圧迫により、「人権」を「独裁国家」や「後進国」にもたらそうとする論者には、大別して二つの類型があるように思われる。
 一つは、日本が人権を尊重する立派な民主主義国であると主張している人々である。本人がそれを心底信じているかどうかは、この場合はあまり問題ではない。もともとそれは政治的な意思表明であって、事実の陳述ではないからである。
 もう一つは、自国の種々の社会問題に批判的な議論を行うのと同じようなスタンスで、他国の問題を批判する人々である。
 率直に言って、前者はただのおめでたいイデオローグなので、彼らだけでは存立できないだろう。日本国が様々な社会問題を抱えており、政界や財界が何か信用のならない理屈によって動いていることなどは、およそ誰でも分かることなのだから、そうした議論が空手形なことは明瞭なのである。ただ政治的・社会的なニヒリズムが作用して、それが積極的に批判されないだけである。
むしろ前者がなす議論は、後者のそれが存在することによって、存立の基盤を補完されているのではないか。
 後者は、日本の公害事件に対して政府や企業と実際に戦い、開発主義を批判するのと同じように、たとえば中国のダム開発やベトナムの原発導入の政策を批判できると思っているような人々である。これもある意味では大変におめでたい。
 日本の公害事件は、開発が貫徹されていった過程で生じているのだから、公害とともにその利得も受け取っている国の人間が、これからリスクを抱えながら開発を進めようとする後発国の政策を批判的に論評するというのは理屈に合っていない。少なくとも、リスクを抱えた開発をしなくても済むような国際的援助の枠組みが実現していない以上は。
 このタイプの人々は、国内の議論に関しては、特にリベラル界隈で、良心的な論者というイメージを付与されている。従って彼らの議論は、国外の議論に関しても一定程度の良心性を伴っていると考えられるだろう。
 彼らの他国に対する議論は、前者のタイプの人々と大差ないものなのだが、この「良心的」な人々が、他国の強引な開発政策や、それに伴う人権侵害を批判しているということは、むしろ前者の言論活動と一貫した、信頼すべき態度とみなされがちである。そして、これら批判的な人々にも日本国が「言論の自由」を与えているということ自体が、他国に対する優越性として認識され、ますます後発国の非道な政策を批判することには神聖性が付与されていく。だが、それと並行して自国の政策批判は等閑視されるようになるのである。「あの国に比べれば我が国は民主的で言論の自由も尊重されているのだから、まさかそこまで酷いことは起こるまい」という類推を裏付け、ニヒリズムとともに政治を停滞させているのは他でもない、これら他国の政体を云々している「良心的」知識人の言論活動である。
 現在、日本ではベトナムへの原発の輸出を、自国内での反原発運動と結び付けて批判する議論が見られるが、国内での運動が立ち枯れを起こした後でも、これらの人々はベトナムでの核被害について、それまで以上に非常な熱心さをもって応ずるのではないかと予測する。その時彼らのロジックは、ベトナムの「一党独裁」による強権の発動を批判する、というようなロジックと必ず唱和していくであろう。この時、反原発運動は自国の政策に対する批判性や自省性を、客観的には完全に失うのである(注)。



(注)実のところ、原子力資料情報室が既にそのようなロジックを展開していることに、筆者は暗澹たる思いがしている。断っておくが、「一党独裁」と強引な原子力開発の間には何の必然的繋がりもない。これは原発大国である日米両国が二大政党制をとっていることを考えれば即座に分かる話である。日本人はあくまで自国の原発輸出政策を批判すればよいのであり、またそれが誠実な政治的責任の取り方というものであって、相手国の政体を批判するというのは余計なお世話というものである。

テーマ : その他
ジャンル : その他

他国の社会(だけ)を問う人びと

 故あって岩波書店の「シリーズ戦後日本社会の歴史」のうち第3巻、『社会を問う人びと 運動のなかの個と共同性』を読む機会を得た。率直に言って、内容以前に各論の質のバラつき――新説を実証しようとしているものから、これまでの一般論をまとめたものまでが混在している――は、個々の執筆者を云々するよりも、まず出版社がどれだけの編集期間をこの論集に費やしたのか疑わざるを得ないものであった。
 読んでいてズルズルと力が抜けていくような感覚を味わったのは、たとえば井関正久によるドイツを事例にした「1968年」論であった。東ドイツのシュタージの「新資料」とやらが発掘されてきているので今のところ全体像が描けない、という留保は、歴史家にありがちな史料(偏重)主義が、68年というジャーナリスティックなテーマ設定と齟齬をきたしているようにしか読めなかった(注1)。

 だが巻末の論文は、それ以上に、思想的にもあまりに酷いものだったので、ここに書き留めておくことにする。北海道大学准教授・水溜真由美の「アジアの女たちの会とその周辺 国際連帯の観点から」という論文である。ここで提示された議論の枠組みは、現在の日本において批判的社会運動を論じる者(実践者=活動家であれ、非実践者=たとえば学者やジャーナリストであれ)のロジックを、かなりの程度象徴しているものだ。
 この論文は、松井やよりらの活動の拠点となった「アジアの女たちの会」を取り上げたものである。
 一般的に、「アジア」を掲げた批判的社会運動というのは、日本の過去のアジアへの軍事的侵略と現代の経済的進出や軍事同盟を連続性のもとに捉える自省的なロジックを根底に持っていたはずである。このこと自体は実は水溜も前提にしている。
 にもかかわらず、この論文では、「アジアの女たちの会」の活動を通してみた「当時のアジアにおける日本の位置」について、以下のような発言が飛び出すのである。「独裁政権で固められていた当時のアジアにおいて言論の自由が保障されていたのは、香港を除けば日本のみだった」
 この無自覚な優越意識はなんなのだろうかと首を傾げざるを得ない。あたかも戦後日本の「民主主義」が他のアジア諸国の政治状況と無関係に成立していたかのような多幸感に満ち満ちている。このロジックに従えば、およそ日本人が行う国際的な社会運動というものは、「民主主義国」の「独裁国」に対する政治的アドバンテージによって可能になるもの、一種の「ノブレス・オブリージュ」のようになってしまう。そこに自国の政治を批判的に捉える自省性は全く消失してしまっている。

 こうして「戦後民主主義」が戦後日本政治の現実への批判的・対抗的な概念ではなく、むしろ政治的メインストリームの実態として再整理されることにより、日本国は他のアジア諸国に対する長期にわたる政治的な優越性をアプリオリなものとして手に入れることができる。この移行には、それ自体が大きな歴史認識上の錯誤であるということ以上に、大変重要な意味がある。他国に対する思想的・政体的優越性という認識は、即ち日本国の他国への指導的立場をも承認することに繋がるからである。
 歴史的な事実の陳述として、戦後日本社会が(危ういながらも)保持してきた「言論の自由」について一定の評価を与えつつ、その意義と実質を(限界を含め)論ずるというならば、まだ理解はできる(注2)。だが、社会運動のモデルとして、それを他国へ敷衍すべき政治的アドバンテージと捉えるのは、自省を欠いた、ただの傲慢というものであろう。というのも、ジャン・ブリクモンが指摘するように、「言論の自由を備えた自由な国であるという事実は、一般に考えられているほど大して良い方向には働いていない。というのは『自由な』報道は呆れるほど同質であり、自由であることそれ自体がプロパガンダの道具として有効性を高めているからだ」(注3)
 この立場は何よりも、たとえば清国やロシアの圧迫から朝鮮を救うと称した大日本帝国の過去の歴史――最終的に大東亜共栄圏の思想へと繋がるそれ――を批判しえないという時点で既に歴史認識・思想上の大きな本末転倒を犯しているのだが、それ以上に現代における「人道主義的介入」、「空爆する自由民主主義」と親和的であるという犯罪性をも伴っている。自国の「言論の自由」は、他の「独裁国家」の政体や、さらにはその国の反体制運動に対するアドバンテージであり、彼らの国にもそれを広める活動は高く評価されるべきだ、という議論は、現実的には「独裁国家」に対して自国が行う経済的・軍事的抑圧に、思想的なそれを加えて、口当たりのよい自己弁護の理屈を生産する効果しかない(注4)。
 この立場からしてみれば、たとえば韓国や中国の反日デモの「暴力性」に対して「冷静に」その「イデオロギー的偏向」を説いて見せるような態度も、朝鮮やシリアの「独裁」に反対してその政権を倒すように訴える議論も、「民主主義国」としての優越感とは何ら矛盾しないどころか、むしろ素直に接続されるのである。

 水溜論文は最後に、「アジアがかつてよりも平等で平和の地域になったわけではない」から「こうした問題を解決する上でグローバルな社会連帯の意義は一層大きくなっている」として「対等で自立した個人同士の関係」を「連帯の基礎」に挙げているのだが、自分が所属している国家の政治的な配置を考えないのが「自立した個人」なのであろうか。それは現実政治で自分の言論がどのように作用するかも考えず「独裁反対」を主張する、人道主義的介入賛成型のリベラルや左翼崩れが唱える俗論と大差ない。これが思想史研究者の仕事であろうか。
 私には「アジアの女たちの会」の活動を実証的に再検証するような知識は無いが、この水溜論文には批判的社会運動の思想的な評価を、まったく別の、というよりも相反する別の路線へと転換させる一つの典型的なロジックが示されていると思う。



(注1)そもそも「新資料」への言及自体がセンセーショナリスティックで、筆者が問題の「詳細な再検討」を求めている割に、むしろ「秘密警察」などといういかにも「歴史好き」が好みそうなトピックの資料(これについての史料批判の言及が無いことには驚かされたが)の存在に振り回されているように思える。
(注2)もちろん天皇制をはじめとして、いくつものトピックで例外があることは言うまでもない。
(注3)『人道的帝国主義』新評論、2011年、p.119。
(注4)このように見たとき、水溜が日本とともに「言論の自由が保障」されていたとしてあげているのが、当時イギリスの植民地であった香港であることは興味深い。内政上「言論の自由が保障」されているということが、国際的な政治上のアドバンテージになるという、典型的な論理の飛躍が起こっている。

テーマ : 本、雑誌
ジャンル : 本・雑誌

ある「護憲派」の廉恥心の無さについて

 選挙の前後というのは概ね自分をとりまく政治状況について改めて認識させられるという意味で非常に不快になるものであるが、それにしてもあまりに酷すぎる会話を聞いたので、以下に書き留めておく。
 その人々は、朝鮮民主主義人民共和国の「ミサイル」について(注)、次のような趣旨のやりとりをしていた。なぜ彼らは我々の国の選挙が近くなるたびにああいう行動をとってくれるのか。護憲勢力が不利になるではないか……。
 これだけでも、後述するような理由で私は大変不快になったものだが、これらの人々からは、さらに次のような「冗談」も飛び出した。すなわち、このようなタイミングで事を興すからには、彼らは実はアメリカから金をもらって日本の軍備を進める手助けをしているのではないか、と。
 あるいはあながち「冗談」ではなく、本音が混じっているのかもしれないが、それにしてもバカバカしい上に恥知らずな発言ではないか。
 言うまでもないことだが、我々の国の憲法をめぐる問題は、あくまで我々の問題であって、朝鮮の政治家たちにとってはどうでもいいことである。一般論としてもそうであるし、日朝関係という特殊なケースを前提に考えても、そうである。
 なぜ朝鮮の政治家たちが、日本の護憲勢力のために技術開発上の留保をせねばならないのか。日本の護憲勢力が不利なのは、護憲勢力自身の思想性や戦略性に問題があるからだろう。
 加えて言うならば、朝鮮の政治家たちにとってみれば、憲法9条があろうがなかろうが、日本国は彼らを一貫して敵視してきたのであるから、改憲がなされようとなされまいと、本質的にはなんの意味もないということを、彼らはその経験から熟知していることだろう。
 このような護憲型左翼の廉恥心の無さを鑑みれば、むしろ朝鮮側は独自の軍備を固めねばならなくなるのではないだろうか。なにしろ敵対的な態度をとってくる隣国で「反戦」を唱えている人々が、実のところ朝鮮のことを、せいぜい自分たちの政治活動のお荷物であるくらいにしか考えていないときているのだから。
 ましてやイラク・リビアと、NATO側に対する態度を軟化させた国は、次々とその政体を転覆させられ、指導者を抹殺されているのである。イラクの時はまだ、事が始まってから「反対」を唱えるタイプの論者はいた。しかしリビアの時には「アラブの春」を寿ぐような頭のおめでたい、「独裁反対」くらいしか能の無い左翼のクズ――「反帝国主義」に「反スターリニズム」を加えたかと思ったら、いつのまにか「反帝国主義」は捨ててしまったような連中のなれの果て――が大威張りで発言していたのである。しかもシリアにいたっては、「アラブの春」ブームも去ったということなのか、ほとんど無関心のうちに転覆の危機に瀕しているではないか。
 こうしてみると、朝鮮としては、NATOの側にいる国の内部反戦勢力などに期待はしていられないというものだ。もとより眼中にないことだろうが、もしこのような勢力があることを知ったとしたら、まず自主防衛路線を確固たるものにし、そして軍需用・民生用を問わず独自の技術の蓄積を続けなければならないと考えるのが、現実主義的な情勢判断というものではないだろうか。
 別段、日本の護憲派が9条に対する幻想で下らないおしゃべりをしようと私には関心がない。しかし他国に迷惑をかけたり、侮辱したりすることだけはやめていただきたいと思う。日本人として恥ずかしい。

(注)ところで日本のメディアはいつまで「事実上のミサイル」などという最低の呼び方を続けるのだろうか。これなら「ミサイル」とはなから決めつけている右翼の方がよほど潔いというものである。根拠を示さず、しかし留保付きのような表現で責任を巧みに回避し、だが確実に読者・視聴者の印象に影響を与えるというのは、もはや公論の担い手として卑劣である。
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