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頭上の蝿を追え

 日本において、軍事行動から言論活動まで様々な圧迫により、「人権」を「独裁国家」や「後進国」にもたらそうとする論者には、大別して二つの類型があるように思われる。
 一つは、日本が人権を尊重する立派な民主主義国であると主張している人々である。本人がそれを心底信じているかどうかは、この場合はあまり問題ではない。もともとそれは政治的な意思表明であって、事実の陳述ではないからである。
 もう一つは、自国の種々の社会問題に批判的な議論を行うのと同じようなスタンスで、他国の問題を批判する人々である。
 率直に言って、前者はただのおめでたいイデオローグなので、彼らだけでは存立できないだろう。日本国が様々な社会問題を抱えており、政界や財界が何か信用のならない理屈によって動いていることなどは、およそ誰でも分かることなのだから、そうした議論が空手形なことは明瞭なのである。ただ政治的・社会的なニヒリズムが作用して、それが積極的に批判されないだけである。
むしろ前者がなす議論は、後者のそれが存在することによって、存立の基盤を補完されているのではないか。
 後者は、日本の公害事件に対して政府や企業と実際に戦い、開発主義を批判するのと同じように、たとえば中国のダム開発やベトナムの原発導入の政策を批判できると思っているような人々である。これもある意味では大変におめでたい。
 日本の公害事件は、開発が貫徹されていった過程で生じているのだから、公害とともにその利得も受け取っている国の人間が、これからリスクを抱えながら開発を進めようとする後発国の政策を批判的に論評するというのは理屈に合っていない。少なくとも、リスクを抱えた開発をしなくても済むような国際的援助の枠組みが実現していない以上は。
 このタイプの人々は、国内の議論に関しては、特にリベラル界隈で、良心的な論者というイメージを付与されている。従って彼らの議論は、国外の議論に関しても一定程度の良心性を伴っていると考えられるだろう。
 彼らの他国に対する議論は、前者のタイプの人々と大差ないものなのだが、この「良心的」な人々が、他国の強引な開発政策や、それに伴う人権侵害を批判しているということは、むしろ前者の言論活動と一貫した、信頼すべき態度とみなされがちである。そして、これら批判的な人々にも日本国が「言論の自由」を与えているということ自体が、他国に対する優越性として認識され、ますます後発国の非道な政策を批判することには神聖性が付与されていく。だが、それと並行して自国の政策批判は等閑視されるようになるのである。「あの国に比べれば我が国は民主的で言論の自由も尊重されているのだから、まさかそこまで酷いことは起こるまい」という類推を裏付け、ニヒリズムとともに政治を停滞させているのは他でもない、これら他国の政体を云々している「良心的」知識人の言論活動である。
 現在、日本ではベトナムへの原発の輸出を、自国内での反原発運動と結び付けて批判する議論が見られるが、国内での運動が立ち枯れを起こした後でも、これらの人々はベトナムでの核被害について、それまで以上に非常な熱心さをもって応ずるのではないかと予測する。その時彼らのロジックは、ベトナムの「一党独裁」による強権の発動を批判する、というようなロジックと必ず唱和していくであろう。この時、反原発運動は自国の政策に対する批判性や自省性を、客観的には完全に失うのである(注)。



(注)実のところ、原子力資料情報室が既にそのようなロジックを展開していることに、筆者は暗澹たる思いがしている。断っておくが、「一党独裁」と強引な原子力開発の間には何の必然的繋がりもない。これは原発大国である日米両国が二大政党制をとっていることを考えれば即座に分かる話である。日本人はあくまで自国の原発輸出政策を批判すればよいのであり、またそれが誠実な政治的責任の取り方というものであって、相手国の政体を批判するというのは余計なお世話というものである。
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ある「護憲派」の廉恥心の無さについて

 選挙の前後というのは概ね自分をとりまく政治状況について改めて認識させられるという意味で非常に不快になるものであるが、それにしてもあまりに酷すぎる会話を聞いたので、以下に書き留めておく。
 その人々は、朝鮮民主主義人民共和国の「ミサイル」について(注)、次のような趣旨のやりとりをしていた。なぜ彼らは我々の国の選挙が近くなるたびにああいう行動をとってくれるのか。護憲勢力が不利になるではないか……。
 これだけでも、後述するような理由で私は大変不快になったものだが、これらの人々からは、さらに次のような「冗談」も飛び出した。すなわち、このようなタイミングで事を興すからには、彼らは実はアメリカから金をもらって日本の軍備を進める手助けをしているのではないか、と。
 あるいはあながち「冗談」ではなく、本音が混じっているのかもしれないが、それにしてもバカバカしい上に恥知らずな発言ではないか。
 言うまでもないことだが、我々の国の憲法をめぐる問題は、あくまで我々の問題であって、朝鮮の政治家たちにとってはどうでもいいことである。一般論としてもそうであるし、日朝関係という特殊なケースを前提に考えても、そうである。
 なぜ朝鮮の政治家たちが、日本の護憲勢力のために技術開発上の留保をせねばならないのか。日本の護憲勢力が不利なのは、護憲勢力自身の思想性や戦略性に問題があるからだろう。
 加えて言うならば、朝鮮の政治家たちにとってみれば、憲法9条があろうがなかろうが、日本国は彼らを一貫して敵視してきたのであるから、改憲がなされようとなされまいと、本質的にはなんの意味もないということを、彼らはその経験から熟知していることだろう。
 このような護憲型左翼の廉恥心の無さを鑑みれば、むしろ朝鮮側は独自の軍備を固めねばならなくなるのではないだろうか。なにしろ敵対的な態度をとってくる隣国で「反戦」を唱えている人々が、実のところ朝鮮のことを、せいぜい自分たちの政治活動のお荷物であるくらいにしか考えていないときているのだから。
 ましてやイラク・リビアと、NATO側に対する態度を軟化させた国は、次々とその政体を転覆させられ、指導者を抹殺されているのである。イラクの時はまだ、事が始まってから「反対」を唱えるタイプの論者はいた。しかしリビアの時には「アラブの春」を寿ぐような頭のおめでたい、「独裁反対」くらいしか能の無い左翼のクズ――「反帝国主義」に「反スターリニズム」を加えたかと思ったら、いつのまにか「反帝国主義」は捨ててしまったような連中のなれの果て――が大威張りで発言していたのである。しかもシリアにいたっては、「アラブの春」ブームも去ったということなのか、ほとんど無関心のうちに転覆の危機に瀕しているではないか。
 こうしてみると、朝鮮としては、NATOの側にいる国の内部反戦勢力などに期待はしていられないというものだ。もとより眼中にないことだろうが、もしこのような勢力があることを知ったとしたら、まず自主防衛路線を確固たるものにし、そして軍需用・民生用を問わず独自の技術の蓄積を続けなければならないと考えるのが、現実主義的な情勢判断というものではないだろうか。
 別段、日本の護憲派が9条に対する幻想で下らないおしゃべりをしようと私には関心がない。しかし他国に迷惑をかけたり、侮辱したりすることだけはやめていただきたいと思う。日本人として恥ずかしい。

(注)ところで日本のメディアはいつまで「事実上のミサイル」などという最低の呼び方を続けるのだろうか。これなら「ミサイル」とはなから決めつけている右翼の方がよほど潔いというものである。根拠を示さず、しかし留保付きのような表現で責任を巧みに回避し、だが確実に読者・視聴者の印象に影響を与えるというのは、もはや公論の担い手として卑劣である。

「寛容な権威主義」について

 先ごろ亡くなった武井昭夫が、生前に大西巨人との対談で興味深いことを言っていた。以下引用する。

武井 そうですね。「Aである」という言い方が好まれなくなってから、ずいぶん経つような気がします。労働組合や民主団体で、なんでもかんでも「……と思います」というのが流行りだした。「これから会議を始めたい、と思います」と言う。「始めます。」と言うべきところをなんとなく、もやっとさせる表現に全体が引きずられていく。一九七〇年代の半ばくらいから、こうした曖昧な言い方が各方面で幅を利かせるようになりましたね。
大西 「Aでもなければ、Bでもない」という言い方を認めることが民主主義的だ、と勘違いしている人も多い。

「二一世紀の革命と非暴力―大西巨人氏との対話―新作『縮図・インコ道理教』をめぐって」『“改革”幻想との対決 武井昭夫状況論集2001-2009』スペース伽耶、2009年、初出:季刊『社会評論』141号(2005年春号)

 これは一考に値する指摘である。私も自分が文章を書く時、特に自信が無い場合、「~したいと思う」という表現を、つい使ってしまう。個人の文章ならば、まだしも文責の所在がはっきりしているが、社会運動などの公的な現場で主催者や集会の司会者がこういった言葉遣いをするのは、より深刻な事態であろう。
 「~したいと思う」というのは、柔らかで自分の主張を押し付けない物言いでは、実はない。むしろこれは「これからこのようにしますが、皆さんにもご異議はありませんね?」ということを暗に言っている。もちろん聴衆に異議など無いことが前提である。
 このような言葉遣いは、「~する」ということの主体と責任を、自らが引き受けるのではなく、それに暗黙の同意をした(とみなす)一般聴衆へとシフトさせることを意味する(注)。それによって本来の行動の主体は、責任をとらずに済むことになる。また、公的行動とその結果ではなく、それを導き出した内面を見て欲しい、という欲求は、うまく結果責任を回避する巧妙な戦略でもある。いずれにせよ無責任な態度と言うほかない。
 そしてこうした態度は、たとえば近年の行政が、ある政策案に異議を持つ人々の意見を聞く場を持ちながら、実はその政策の施行が規定路線であることはあらかじめ決まっていて、談合の場を持ったことをアリバイとして、粛々として事態を進行させていくという構図へと、さらなる抑圧の深まりを見せてもいよう。

 こういうソフトな抑圧、「寛容な権威主義」とでも呼ぶべき態度が、現代社会に瀰漫している。これが高ずると、自分と意見が対立しそうな人間を前にした人は以下のように先手を打ちはじめる。「批判がおありならどうぞなさってください」。しかしこれは、敵対性が本当に露になる前に、その出鼻をくじこうとする無意識の働きである。このように一見して「下手」に出られた上で、徹底的な批判を行ったならば、批判者はむしろ無礼で不寛容な人間であるかのように見えてしまう。
 概ねこうした「寛容な権威主義」的態度は、年嵩であったり、あるいはある程度の社会的地位を得ていたりする人間により、若輩ないし無名の人間に対してとられることが多い。こうすることによって、「批判に開かれた自己」と、「矛盾に引き裂かれつつ葛藤する内面性」を演出しつつ、しかし露骨な敵対性はあらかじめ切り捨てるか回避することができるのである。
 真に「権威主義的」な態度を忌避しようとするならば、武井と大西が述べているような「もやっとした」「曖昧な」物言いから内面の多様性を匂わせる姿勢は、十分に慎まれるべきだろう。



(注)もっとも「日本国憲法」ではそもそも第一条からして天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」と、その「主権」をあらかじめ簒奪して語られているので、これは極めて「日本的」な現象であるのかもしれない。

更新再開のお知らせ

 せっかくウェブ上に論説の「仮置場」を設けたというのに、半年近くにわたって放置してしまった。この間、いくつか時評や書評、映画評などの下書きをつくってはいたのだが、それらはどうにも、個別に論ずるべきものというより、むしろ大きなつながりを持ったものとして考えるべきであるように思え、そのまま提示することが躊躇われていた。
 しかし現実問題として、それらの事象を包括的に論じようとすると、おそらく更新は年単位で先になるであろうこと、その物量は膨大なものになるであろうこと、そして生来の遅筆と怠惰から、あるいは途中で放棄してしまうであろうことといった、いくつかの問題や危険性を鑑みて、いささか断片的な形ではあれ、議論を少しずつ提示していくよう、方針を改めることにした。
 もっともこれは、複数の論説に相互にリンクすることが容易な“ブログ”という発表形式に、あるいはより相応しいやり方であるかもしれない。前回の書評では、雑誌論文的な記述形式を採っていたが、以降は少しずつ形式を変えながら語ることを考えている。

 さて、そこで今後どのようなことを論じるかを、ある程度あらかじめお断りしておこうと思う。もちろん議論を進めるうちにそこに収まりきらないものも出てくると思うが、それでも、だいたいの意図を最初に伝えておくことは無駄ではないだろう。
 筆者が以後しばらく、この「通信」を通して論じていこうと考えているのは、現代日本の、特に左派(とされる)言論人の思考を強く規定している、ある種のモード(それを“イデオロギー”と言ってもいいだろう)についてである。より踏み込んで言うならば、現代日本の左派ないし“リベラル”が、無残なまでの自壊現象をすすんで引き起こしているその一つの要因を、ある時代のロジックを参照しながら考えなおすことである。

 近年、日本の出版界では「1968年」が注目されているようだ。これはひとつには、当時の反体制運動をになった全共闘世代が老年に達し、その体験がオーラル・ヒストリーという形で歴史化されつつあることの表れでもあろう。それ自体は悪いことではない。だが、なぜ「1968年」が象徴的な意味合いを強く帯びて、出版産業から価値性を見出されているのか、その意味は今少し注意深く見なおされた方がいい。とにもかくにも、記録が残されることはいいことである、というような機会主義的な見方には慎重であるべきだ。
 あくまで私見に基づく仮説ではあるが、こうした(いささかならずニッチではあれ)“68ブーム”とでもいうべき現象は、おそらく出版界ないし言論界における思考のモードが、あらかじめ「1968年」によって代表される、70年安保前後のイデオロギーによって規定されているためではないだろうか

 現代日本の左派論壇における言論人の、仲間同士でのだらしない癒着から生じた「転向」を批判し、現在は新潮社ほかとの裁判を継続中である金光翔氏は、その論考「<佐藤優現象>批判」(初出:『インパクション』第160号、インパクト出版会、2007年11月)に先駆け、2006年12月の時点で、自身のブログ記事にて、「吉本隆明の影響を受けた全共闘系のモノ書き」のイデオロギーこそが、言論の右旋回と「リベラルの自壊」(徐京植)を用意したのではないかと述べている。
 この問題提起は重要である。第一にこの議論からは、かつて革新的であった(あるいは“あるとされた”)思考様式が、いまや何ら革新性をもたず、むしろ日本社会の保守化を推進する機能を担っているのではないかと考え直す必要が生じてくる。また第二に、そうした思考のモードが、現代左派の思考様式を規定しているならば、現在の“68ブーム”は、今まさに消えて行こうとする「敗者の歴史」を文字に留めようとする営みとしてのみは、ありえないことになる。
 本「通信」では以降、いくつか近年の書籍や映画などをとりあげながら、こうしたイデオロギーが、いかに現在も強くわれわれの文化に浸透しており、しかもそれが今や、ラディカルさを保ちえていないばかりか、かえって大きな弊害をもたらしているかということを論じていこうと思う。
 最初に断ったとおり、いくつかの具体的な分析をもとに、行きつ戻りつしながら全体的なテーマを浮かび上がらせるような形式をとりたいと思っているので、いささかならず迂遠な試みになるかもしれないが、お付き合いいただける読者が1人でも2人でもいれば、幸いである。
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