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101年目の岩波書店

 昨年末、「首都圏労働組合特設ブログ」にて、岩波書店社員の金光翔氏が「岩波書店の社長交代劇と岩波書店の今後」という記事を書いていた。最近の同社の経営状況について、社内組合の「団交ニュース」などを用いて論じていたのだが、その部分がその後、削除されてしまっていた。以前から金氏による内部告発には、会社側から圧力が加えられているので、今回の動きもその一端ではないかと思われる。
 ただし、削除された部分については別のブログが、一部標題などを付け加える形で転載していた。なお、転載先では金光翔氏は既に解雇されたことになっているが、これは間違いであろう。

 ところで私は、岩波書店の経営危機が、転載先の執筆者が述べているような「天誅」だとは考えていない。
 金氏もしばしば指摘していることだが、現在の日本のリベラルの議論というのは、根本的な部分で保守派と価値観を同じくしてしまっており、それを何やら保守との「対話の可能性」を開く行為と勘違いして、ますます自壊を続けてズルズルと思想的滑落を続けている状態にある。従って、それならばいっそ保守派の議論を読んだ方が手っ取り早いのである。岩波書店の編集者が好むような議論に需要が無くなるのは、必然的な結果である。
 この場合、保守化しているのは実は読者ではなく、書き手と編集者である。岩波書店という企業がひざまずいて首を垂れる対象は、保守派の思想というよりも、誤った編集/経営方針による言論市場での淘汰の法則に過ぎない。

 いま一つ、岩波書店の近年の動向で筆者が感じているのは、いわゆる「講座」や全集系の、シリーズ書籍がやたらと増えてはいないかということである。出版目録を調べたわけではないので、あくまで感覚的なものなのだが、創業100周年にして経営危機下にある岩波書店が、これほど大部のシリーズを乱発するというのは、いったいどういうことなのだろうか。

 たとえば「創業百年記念出版」として出版される『岩波講座 日本歴史』は全22巻であるが、これは予約出版制をとっており、全巻予約申し込みをしないと買えないもののようだ。
 普通に考えれば、一冊3200円+税のシリーズものの書籍を全巻購入する人など、ほとんどいないだろう。しかし、全国の公立図書館は3200館強、大学図書館は1600館強あるので、これらの図書館の約半数が購入するだけでも、2000セット以上は確実に売れるのである。それならばかえって、最初からさばける数が読めている分、商売としては成立しやすいだろう。

 もちろん個人購入ではなく、図書館で読まれるために販売される本自体は、あっていい。高額な辞典類や専門書は、むしろそうした形で図書館に蓄積され、再販が無かろうとも必要に応じていつでも参照可能になっている方がよいだろう。
 ただし、専門書にそのような価値が生じるためには、本来そこに掲載される論説が、その時代の学術の動向や水準をしっかりと反映したものになっている必要がある。四半世紀前に出た学術書の議論は、その後も着実に考察や分析や実証データなどが蓄積されていくような領域であれば、いずれアクチュアリティは失われようとも、研究史的な観点から、ある時代の傾向を読み解くために参照されるようになるだろう。従って、様々な論者を集めて、あるテーマのもとに複数の論説を掲載する「講座」や専門書のシリーズは、それぞれの分野での議論の水準と定説とを、適切にまとめたものであってほしいものだ。

 しかるに、近年の岩波の論集は、とてもそうは読めない。以前に「シリーズ戦後日本社会の歴史」を取り上げたが、このシリーズに限らず、編集者が知人の研究者から数人の編者を選び、その編者からネズミ講式に即席で筆者を集めたのではないかと思えるような、出版社としての編集方針の見えない、杜撰で統一性のない論集が目立つ。これらは、ほとんどサークル会誌のようなものである。サークル会誌ならサークル会誌として出してもらえれば、ある特定のグループの議論として傾聴することもできるが、それが「講座」のような形式で出るのは問題であろう。
 しかしながら、全国の図書館は当面、岩波書店のシリーズものの専門書には、一定のブランド的な信頼感をもって購入を続けるであろうから、このような杜撰な編集の産物であっても、前述のように商売としては、おそらく成立するのである。
 こういった論集が図書館に所蔵されて、ある一時代を代表する論集として後年まで保存されるとなると、それは書架と購入費の大いなる浪費にならないだろうか。

 無論、後年の読者がしっかりと、この時代の岩波の論集はアテにならないという知識をもって読んでくれるならば、これは杞憂に終わるのだが、それはそれで「岩波100周年」が汚辱に満ちた歴史の一コマとして記憶されることになるだろう。



(2014.1.25.追記)
 「講座」系シリーズ書籍のもう一つの市場として、大学等研究機関の研究室もあるだろう。どの分野であっても、現役の研究者であれば、専門領域の現状に、たえずアクセスしておく必要があるから、新たに出た類書には目を通すことになる。よって、その書籍の質の如何にかかわらず、一定の需要が生ずるわけである。図書館と並んで、安易な企画でも買ってくれる(買わざるを得ない)という社会的な性格につけこんだ、非常に足下を見た商法ではないだろうか。
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他国の社会(だけ)を問う人びと

 故あって岩波書店の「シリーズ戦後日本社会の歴史」のうち第3巻、『社会を問う人びと 運動のなかの個と共同性』を読む機会を得た。率直に言って、内容以前に各論の質のバラつき――新説を実証しようとしているものから、これまでの一般論をまとめたものまでが混在している――は、個々の執筆者を云々するよりも、まず出版社がどれだけの編集期間をこの論集に費やしたのか疑わざるを得ないものであった。
 読んでいてズルズルと力が抜けていくような感覚を味わったのは、たとえば井関正久によるドイツを事例にした「1968年」論であった。東ドイツのシュタージの「新資料」とやらが発掘されてきているので今のところ全体像が描けない、という留保は、歴史家にありがちな史料(偏重)主義が、68年というジャーナリスティックなテーマ設定と齟齬をきたしているようにしか読めなかった(注1)。

 だが巻末の論文は、それ以上に、思想的にもあまりに酷いものだったので、ここに書き留めておくことにする。北海道大学准教授・水溜真由美の「アジアの女たちの会とその周辺 国際連帯の観点から」という論文である。ここで提示された議論の枠組みは、現在の日本において批判的社会運動を論じる者(実践者=活動家であれ、非実践者=たとえば学者やジャーナリストであれ)のロジックを、かなりの程度象徴しているものだ。
 この論文は、松井やよりらの活動の拠点となった「アジアの女たちの会」を取り上げたものである。
 一般的に、「アジア」を掲げた批判的社会運動というのは、日本の過去のアジアへの軍事的侵略と現代の経済的進出や軍事同盟を連続性のもとに捉える自省的なロジックを根底に持っていたはずである。このこと自体は実は水溜も前提にしている。
 にもかかわらず、この論文では、「アジアの女たちの会」の活動を通してみた「当時のアジアにおける日本の位置」について、以下のような発言が飛び出すのである。「独裁政権で固められていた当時のアジアにおいて言論の自由が保障されていたのは、香港を除けば日本のみだった」
 この無自覚な優越意識はなんなのだろうかと首を傾げざるを得ない。あたかも戦後日本の「民主主義」が他のアジア諸国の政治状況と無関係に成立していたかのような多幸感に満ち満ちている。このロジックに従えば、およそ日本人が行う国際的な社会運動というものは、「民主主義国」の「独裁国」に対する政治的アドバンテージによって可能になるもの、一種の「ノブレス・オブリージュ」のようになってしまう。そこに自国の政治を批判的に捉える自省性は全く消失してしまっている。

 こうして「戦後民主主義」が戦後日本政治の現実への批判的・対抗的な概念ではなく、むしろ政治的メインストリームの実態として再整理されることにより、日本国は他のアジア諸国に対する長期にわたる政治的な優越性をアプリオリなものとして手に入れることができる。この移行には、それ自体が大きな歴史認識上の錯誤であるということ以上に、大変重要な意味がある。他国に対する思想的・政体的優越性という認識は、即ち日本国の他国への指導的立場をも承認することに繋がるからである。
 歴史的な事実の陳述として、戦後日本社会が(危ういながらも)保持してきた「言論の自由」について一定の評価を与えつつ、その意義と実質を(限界を含め)論ずるというならば、まだ理解はできる(注2)。だが、社会運動のモデルとして、それを他国へ敷衍すべき政治的アドバンテージと捉えるのは、自省を欠いた、ただの傲慢というものであろう。というのも、ジャン・ブリクモンが指摘するように、「言論の自由を備えた自由な国であるという事実は、一般に考えられているほど大して良い方向には働いていない。というのは『自由な』報道は呆れるほど同質であり、自由であることそれ自体がプロパガンダの道具として有効性を高めているからだ」(注3)
 この立場は何よりも、たとえば清国やロシアの圧迫から朝鮮を救うと称した大日本帝国の過去の歴史――最終的に大東亜共栄圏の思想へと繋がるそれ――を批判しえないという時点で既に歴史認識・思想上の大きな本末転倒を犯しているのだが、それ以上に現代における「人道主義的介入」、「空爆する自由民主主義」と親和的であるという犯罪性をも伴っている。自国の「言論の自由」は、他の「独裁国家」の政体や、さらにはその国の反体制運動に対するアドバンテージであり、彼らの国にもそれを広める活動は高く評価されるべきだ、という議論は、現実的には「独裁国家」に対して自国が行う経済的・軍事的抑圧に、思想的なそれを加えて、口当たりのよい自己弁護の理屈を生産する効果しかない(注4)。
 この立場からしてみれば、たとえば韓国や中国の反日デモの「暴力性」に対して「冷静に」その「イデオロギー的偏向」を説いて見せるような態度も、朝鮮やシリアの「独裁」に反対してその政権を倒すように訴える議論も、「民主主義国」としての優越感とは何ら矛盾しないどころか、むしろ素直に接続されるのである。

 水溜論文は最後に、「アジアがかつてよりも平等で平和の地域になったわけではない」から「こうした問題を解決する上でグローバルな社会連帯の意義は一層大きくなっている」として「対等で自立した個人同士の関係」を「連帯の基礎」に挙げているのだが、自分が所属している国家の政治的な配置を考えないのが「自立した個人」なのであろうか。それは現実政治で自分の言論がどのように作用するかも考えず「独裁反対」を主張する、人道主義的介入賛成型のリベラルや左翼崩れが唱える俗論と大差ない。これが思想史研究者の仕事であろうか。
 私には「アジアの女たちの会」の活動を実証的に再検証するような知識は無いが、この水溜論文には批判的社会運動の思想的な評価を、まったく別の、というよりも相反する別の路線へと転換させる一つの典型的なロジックが示されていると思う。



(注1)そもそも「新資料」への言及自体がセンセーショナリスティックで、筆者が問題の「詳細な再検討」を求めている割に、むしろ「秘密警察」などといういかにも「歴史好き」が好みそうなトピックの資料(これについての史料批判の言及が無いことには驚かされたが)の存在に振り回されているように思える。
(注2)もちろん天皇制をはじめとして、いくつものトピックで例外があることは言うまでもない。
(注3)『人道的帝国主義』新評論、2011年、p.119。
(注4)このように見たとき、水溜が日本とともに「言論の自由が保障」されていたとしてあげているのが、当時イギリスの植民地であった香港であることは興味深い。内政上「言論の自由が保障」されているということが、国際的な政治上のアドバンテージになるという、典型的な論理の飛躍が起こっている。

テーマ : 本、雑誌
ジャンル : 本・雑誌

「岩波労組」はその構成員を即時「解放」せよ

 前回の記事でとりあげた金光翔氏に対し、岩波書店は今もって不当労働行為を継続しているようだ。その一方で金氏は、佐藤優と『週刊新潮』とを相手取った控訴審をも開始するそうで、その思考と実践を統一した行動力には頭の下がる思いがする。
 さて、その金氏が控訴審についての告知に先立って、会社との対立の原点でもあるという、大変興味深く、また充実した内部告発を行っている。発行当時もそのタイトルと表紙デザインについて少なからぬ批判的反響があったように記憶している岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言』(以下 “ブックレット”)の出版経緯が、当時の自らの経験をもとに克明に開示されているのである。
 この告発は金氏の個人的な体験談を超えて、岩波書店が経営危機打開のため、秘密裏に――「社外秘」ならぬ「社内秘」まで駆使して――外部にパトロンを求め、自ら言論を退廃させて行く様が手に取るようにわかる好ルポルタージュとなっている。
 またここからは、金氏が当時から一貫して、岩波書店という一私企業に従属しない、一人の独立した人間としての尊厳をもって行動していたことが分かる。「会社に対しては、社員といえども批判を含めた自由な言論活動が認められるべきである」という発言に顕著に見られるように、金氏は会社員たることで、公的に認められているはずの権利が企業によって恣意的に制限されてはならないことを明敏に察知し訴えている

 実のところこのように、一私企業の利益に対して個人の普遍的な権利を擁護するのは、会社内においてはまずもって労働組合が労働者としての(それゆえに一私企業に従属しない)立場から積極的に行うべきことである。
 さらに言うならば、出版社に働く職員たちの精神の尊厳を積極的に守らんとするならば、当然ながら出版される本や雑誌の内容についても批判的検討がなされてしかるべきであろう。これはもちろん、企業側が独占する編集権を蚕食すること、すなわち出版社の経営権そのものを経営陣の独裁的なものから一般職員にまで開かれた民主的なものにする企業変革の一端となるものだ(注1)。
 逆に経営権=編集権を経営陣が独占し、場合によっては都合よく秘匿することが許されるならば、現今の岩波書店経営危機下において金氏が危惧し、また批判したように、外部スポンサーと経営陣との野合によって、彼らの利益を代表するだけの出版社に岩波書店が変貌していく(というよりは既に変貌しつつある)であろうと見ることは、ごく自然の道理である。
 しかもこの野合がもたらすものが、<佐藤優現象>に代表されるような日本論壇におけるリベラル左派の「集団転向」であり、その具体的な方向性が「国民戦線」的な結束の論理、事実上の排外主義の強化として表れている今日、在日朝鮮人である金氏がこの点においても深く憂慮し、批判を鋭くするのは当然である。もし岩波書店が、今でも民族問題を日本人の問題とバーターで切り捨ててもよいものであると考えていないと言うならば、その批判には進んで耳を傾けるべきではないか。

 言ってみれば岩波書店の現状は、金氏の出版業界人としての公的責任意識、出版労働者としての尊厳、そして在日朝鮮人としてのアイデンティティの3つの面にわたり、見事なまでにそれらをことごとく毀損するものとして存在しているのである。
 ところが金氏によれば、ブックレット企画当時の岩波労組の委員長は、金氏から相談を受けた際、「そのプロジェクトの件はある程度自分も聞いているが、組合としては企画内容についてタッチできないからこれについても現段階ではできない、それが「社内秘」ならば、社員であれ部外の人間に伝えることは許されないことになるから、勝手に部外の社員に伝えるような行動をとった場合、組合からの除名もありうる、注意せよ」との返答を行ったという。企業側の設ける規則や分断に対し、その是非についての疑問も覚えず唯々諾々として従い、従ってそこから精神的に独立した行動の意義を理解してもおらず、逆に当時の組合構成員に対して、一市民として、また出版労働者としての尊厳を奪うかもしれない不当なルールとそこからもたらされる結果とを順守するよう率先して諭しているのである。
 つまるところ金氏は、岩波労組が行おうともしない(あるいは労働協約で組合は企画権に触れないことが決まっているのかもしれないが、もちろんそれは争わねばならない焦点である)企画権に対する異議申し立てを、自発的に、自らのネットワークを駆使して行っていたことになる。
 日本の労働組合から、こうした闘争性が失われて久しいことは知識として知ってはいたが、いわゆる「戦わない労働組合」、「ストもできない労働組合」どころか、ついには企業と癒着して社内の批判者を弾圧し、不当労働行為を促すに至った組合が、なんと労働問題に関する著作を多数出版している岩波書店内に存在して隠然たる勢力をもっているというのは、とてつもないブラックジョークである。

 金氏はブックレットの刊行タイトルに対して自らが提出したという意見書を引用する際に、「今から考えれば、まともに経営陣に何かを説得しようとしていた自分の浅はかさや、気負った文体に恥ずかしくなる」と言い置いているが、そもそも社員からこのように匙を投げられる岩波書店経営陣と、そしてそうした企業を批判する術を持たない労働組合とは、いったい何なのか。
 本来、人間は自分が生活していくための糧を得る仕事には、せめて誇りくらい持ちたいと思うものだろう。もちろんそれが劣悪な労働環境を自己合理化するように作用することもあるし、また、自らの職業(企業ではなく)に対する愛着と誇りが、企業に従属しない力を保障していたにもかかわらず、結果的にその対抗的行動を企業利益に従属させてしまった皮肉な事例も歴史上には見られる(注2)。
 しかし「労働は神聖である」との考えから「種まく人」の姿を企業のシンボルマークに掲げているという岩波書店に勤める職員が、自らの勤める企業の出版物に対して正しく「気負い」くらい持てずして、いったいこの出版社に存在する意義があるのであろうか。
 まして、このように空疎化した岩波書店に対し、誰よりもプライドを覚えているのが岩波労組幹部であるらしきことは皮肉である。虚しいプライドを抱くのは、やはり虚しい思考力しか持たない人物たちだということであろう。

 私は、岩波書店労働組合が実質的にQCサークルのようなものだと前回の記事で書いたが、この評価はやはり誤っていなかったと考えている。岩波労組は一日も早くその組織名称を「岩波書店のブランド力を守る会」とでも変更し、労働組合としての体裁を偽装することをやめて、社内の組合員たちを「解放」すべきである。彼らは今、潜在的には全ての組合員の首を人質にとって企業と癒着し、その利益のために専制的な権能を振るっている。
 あるいはより積極的に、一般職員たちの方が自発的に岩波労組を脱退し、他のユニオンに集団で移籍するのもよいかもしれない。どうせ現在の岩波労組に所属していても、残業代のような問題にさえ積極的な闘争を行ってくれないようだから、他のユニオンに所属を移しても、岩波労組が企業側と組んで大々的に悪質な不当労働行為を促してこない限りは、さほど職員たちに実害は無いだろう。むしろ労働者の権利擁護という観点からは有益な成果が生まれる可能性さえある。そして脱退者が増加すればするほど、強権の発動も難しくなるはずだ。

 岩波書店経営陣と、その社内QCサークル“岩波書店労働組合”に対する、金氏による根本的な異議申し立ては、人間としての誇りと公的な言論の社会的責任を掲げ、そして在日朝鮮人をはじめとする日本国内における外国人の尊厳と、出版労働者の本義としての権利を擁護することにつながるものであり、決して黙殺されてはならない。たとえどんなに微力なものであれ、さらなる支援の輪が広がることを願う。



(注1)念のために言っておくと、経営権が一般職員に対して開かれているというのは、既存の経営者に従順であったり、あるいは御用組合の幹部を務めたりさえすれば、容易に会社の幹部になることができるということではない。別段、管理職でもない職員が一人の人間として尊重され、企業としてのあり方にいつでも責任を持って異議を唱えられる状態を言うのである。ちなみに岩波書店の場合、経営陣が率先して外部のスポンサーにすり寄り、それを労働組合が批判もしないというのだから、これは既に企業自体が独立した機能を失っている。これでは一般職員は、目の前の編集業務にすら責任を持てない。自らの仕事が企業内で開示を求めうる範囲を超えて、外部のスポンサーの意向によって生じたものであるかもしれないという疑念が、つねについてまわるのだから。

(注2)たとえばアンドルー・ゴードン「職場の争奪」(『歴史としての戦後日本 下巻』みすず書房、2002年)では、ある時代の鉄鋼労働者たちが、職場とその設備を企業のものではなく、まさに自分たち自身のものであると考えられるほどに職場規制を進めていたがゆえに、逆に企業資産である高炉を損傷するような可能性のある徹底したストライキを実行することができず、結果として企業側を安堵させる結果を招いた事例が紹介されている。

金光翔氏の解雇を許してはならない

 2007年、『インパクション』誌上にて論文「<佐藤優現象>批判」を発表し、近年では『週刊新潮』および佐藤優を相手取っての裁判を進める一方、その佐藤優との野合を継続するばかりか、自社の社員すら守ろうとしない岩波書店および同社労働組合の姿勢をも厳しく批判してきた金光翔氏に対し、先日組合側から除名処分がなされ、同時に会社側からはユニオンショップ制をタテにとった解雇通告が出されたという。
 既にウェブ上では先週から幾人かの方々が報じているが、金氏本人からの公式的な告知(ないし訂正)がないところを見ると、おそらく真実であり、氏自身はアナウンスを行う余裕すらないのではないかと思われる。
 金光翔氏は既に岩波書店労働組合からの脱退を表明し、首都圏労働組合に所属していたのだが、これまで会社側も岩波労組側も、ともにこれを承認してこなかった。この時点で二者は、金氏の加入する組合の選択権や、他組合の労働三権を認めないという驚くべき対応を行っていたのである。

 労働組合が分裂を防ごうとするのは、運動体としての自律性と闘争性が保たれ、企業側との間に癒着や馴れ合いがなく、もって労働者の権利を庇護しているときにのみ擁護されるものであろう。そしてその場合でも、最終的には脱退や加入の権利は個々人の側にある。
 まして金氏の報ずるところによれば、岩波労組は時間外労働などについても会社と組合との「信義」に基づいて成り立ってきたと述べている。これが確かならば(金氏は組合文書を引用しているので限りなく真実だろうが)岩波労組は御用組合ですらなく、既にQCサークルのようなものである(注1)。彼らは会社にとっての、いわゆる“生産性阻害要因”を排除するのには何の抵抗感も持っておらず、さらに金氏の批判がまさに正鵠を貫いているがゆえに、労働組合が労働者の権利を踏みにじり、企業と結託して不当労働行為を促すという不潔な行いに出たのであろう。

 今回の除名および解雇措置も、企業と岩波労組双方にとって都合の悪い社員を非合法的に(繰り返すが金氏は首都圏労働組合の組合員である。従って岩波書店と岩波労組のユニオンショップ制による拘束は受けない)葬り去らんとする卑劣な行為であり、普段からの労使の癒着がなければ不可能な連携プレーである。あるいは金氏が『週刊新潮』と佐藤優とを相手取った地裁での裁判で訴えを棄却された後も怯まず言論活動を続け、岩波書店ならびに同社労組への批判の手も緩めていないことが気に食わず、この時期ならば金氏が、負担が増えるのを得策とせず泣き寝入りするのではないかという薄汚い思惑を抱いてのことではないかと私には思える。なぜならば、そのような思惑でもない限り、わざわざ都内の区議会選挙とメーデーとの準備が重なるこの時期に、さらに労組側の仕事が増えるような真似をしてくるとは考えられないからだ。

 金氏が今後どのように判断を行うかは氏自身の考えによるほかないものであり、私の方でどうすべきか示唆を行うつもりはない。だが、岩波書店および同社労組の行った今回の措置、そしてこれまでの行為について、私は決して忘れないし、金輪際許すつもりもない。岩波書店経営者と同社労働組合幹部とは、言論上は人権の尊重を訴えながら、自らの足下では堂々と不当労働行為を働く下劣な輩であることを自ら証明したのであり、同情や配慮の余地は一切ない。

 ところで、岩波書店および同社労組がここまで腐敗している以上、あるいは金氏は、これを機会に同社に見切りをつけ、自主的に独立独歩の言論人としての道を行ったほうが良いのではないかと考える人もいるかもしれない。
 しかし、企業が労組と結託して、一人の従業員に対して不当労働行為を働いている現在、そのような見解は結局のところ、状況の合理化をもたらすものであり、金氏以外の他者の言動としては十分に慎まれるべきである。金氏の進退については金氏自体が決めるべきことであり、いかなる外的干渉によっても不当に条件が設けられてはならない。
 さらに言うならば、金氏を一個の知識人としてのみ捉えることは、金氏自身が同時に岩波書店に勤務する社員でもあり、だからこそ労働問題が生じているという側面を見逃していることにも注意を払うべきである。
 知識人であると同時に労働者でもあるということには、あるいは違和感を覚える人もいるかもしれない。だが、これは現在も進行する、知識人と労働者をめぐる不可逆的な変化の一環であり、そのことを認識した上で、議論がなされねばなるまい。

 20世紀を通した商業メディアの急速な発展は、企業の枠組みという一定の制限の中で、労働者として知的生産に関わる人々を大量に生み出してきた。また、メディア技術の発展がもたらす基礎教養へのアクセスの機会の充実は、労働者全般を必ずしも知から隔てられた存在とはしておかなくなった。
 知へのアクセスの機会の増加は、知の質や価値の低下を意味するわけではない。むしろ、その受容者の拡大は、知の構造自体を洗練させていく機能を果たす。今や、20世紀初頭のブルジョワジーの文化を異化せんとしたモダニズムや、さらにそれを挑発したポスト・モダニズムの洗礼を受けていない商業文化など、はたしてあるものだろうか?
 もちろんそれらに、かつて有されていたような批判的機能が未だ備わっているとは言い難い。しかしながら、それがいかに形骸化したスノビズムであろうとも、ある種の知的なレトリックを用いることは、現代社会において、身につけて当たり前のスキルとなってしまった。我々は、どのような形で教育を受けようと、そのような技術を一定程度マスターしなければ、リスペクタビリティを得ること自体がかなわない。
 従って、アカデミズムの徒弟制度によらずして、そのような知の系譜を媒介する知的生産者は、たとえそれが一種の労働者であっても、むしろひとまずは、一定の社会的敬意を払われる存在となった。たとえば記者や映画人に関する認識は、見下すべき“河原者”ではなくなった。今や、大学を卒業した人間が新聞社や出版社、映画会社やテレビ局などに就職することを、恥ずべきことだと考える者など、いはしないだろう。
 多くの場合、企業と雇用契約を交わした労働者であると同時に知的なものの生産者でもあり、しかしかつてのように数量的に選別され特権化されたアカデミズムの知識人とも異なる立場にある(注2)これらの人々を、仮に知的中間層として位置づけよう。

 ところがこの層は現在、さらなるメディア技術の進展によって、その特権性を剥奪され、没落せんとする危機を迎えている。文章、絵画、映像、音楽などの各種の表現は、今やインターネットにさえアクセス可能であるならば、ワールドワイドに発信できるようになっている。皆が労働者でありながら表現者であり、また知識人でもありうるという状況への変化は、既に始まっている(注3)。この変化はおそらく不可逆的なもので、半世紀先にはこのような知的中間層なる集団は、既に解体されてしまっているかもしれない。
 しかしある階層が没落へ向かうとき、それが甘んじて受け入れられるということは、まずありえない。没落しようとする集団は、自らの拠ってたつ基盤を護持しようと足掻き、立ち居地をさまざまに変化させながら生き残りを図ろうとする。実のところ、おそらくはこうした足掻きこそが最も自らの足下を激しく崩落させていく地団太のようなものであることを知覚することもできずに。
 金氏の言論活動は、ひとつには、この知的中間層(それはおそらく金氏自身や、あるいは私をも含む層である)が、いったい何処を向き、何のために語るのかということを鋭く問い直してきたものである(注4)。自らのエリート性は誇示するが、言動には責任を取らずに野合を進め、そうして己の属する集団の利権擁護のためにのみ語る者の言葉に、一体誰が耳を傾けるのだろうか、と。

 金氏が岩波書店から独立して独自の活動を行えばよいとする議論は、金氏の労働者としての側面を捉えられていない。金氏の一個人としての言論活動の自由と、岩波書店における労働者としての権利とは、同時に擁護されねばならない。そもそも、本来この二つは、金氏という一人の人間の中で不可分なものだからである。
 もちろん私は金氏の行動を支持する。その言論においても、労働者としての生活においても。そして、この二つを引き裂き、もって金氏の人格そのものを破壊し踏みにじろうとする岩波書店および同社労働組合の行いを弾劾するものである。



(注1)岩波労組は、金氏が組合の壁新聞を公的な場で引用することにも批判を行ってきたようだ。ここにも同労組が運動体としての公的な意義を見失い、企業内での組合員の不満の調整弁としての機能に汲々としている態度が見受けられる。

(注2)現代におけるアカデミシャンは、これとは少し異なる階層になっているように思われる。というのも、既に大衆メディアに接して生活していない大学教員や大学生など、ごくごく例外的な少数派だろうからである。一定程度、同じ文化を共有している以上、こうしたアカデミシャンが、かつてのそれと同様であり続けていられるとは思えない。たとえ「大衆社会状況」それ自体を嘆くような権威主義的知識人であっても、アニメ番組の比喩を用いてしまうのは、典型的な事例である。

(注3)ただしこの技術上の変動は、知にまつわる既存の構造を解体し変貌させるものではあっても、人間存在の全的な解放を保証するものではない。その意味で、インターネット技術の進歩が新たな社会運動や「連帯」の可能性を築くというような議論は、そのこと自体に自覚的でもない限り、他の社会的要因の把握や、その積極的構築の視点を放棄した、無責任で無軌道な楽観主義でしかない。

(注4)なお、金氏の言論活動には今ひとつ、そしてより重要な要素として日本社会における在日挑戦人への民族差別の問題がある。これこそが、金氏の「何処を向き、何のために語るのか」を支える要諦であろう。今後、この二者を総合化し、立体的に理論化して受け止める必要が、金氏の読者である我々にはある。
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