スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

“1968”と現代映画/言論(その1)―『ロストクライム―閃光―』②

 いまひとつ、この映画の劇中にて「造反」の意義が示されないことは、それが立ち向かう対象の描き方の平板さへもつながっている。たとえば警察の描き方が、あまりに古典的な警察ドラマのそれなのである。もちろん現在でも『踊る大捜査線』など、腐敗して官僚的な上層部と、熱心な現場の刑事という構図が描かれる映画はある。しかし、エンターテイメントにおけるアクションの前提たる障害として、そうした機構の腐敗が設定されている作品と、テーマそのものの根幹に「造反」が関わっている作品とでは、要求される描き方の質は大きく変わってくるはずである。
 警察機構がいかなる論理で動いていて、どのように事態が推移していったのか。そうしたことに対する、ある意味で冷静で客観的な描写より、ただ組織の論理が個人の生や信念といった内面的な価値観を踏みにじっていくというような平板な構図が、この作品を貫いている。組織は常に陰謀をたくらみ、それに翻弄されてどうにもならない個人だけが焦点になる。最初から出口は閉ざされているというのに、それに向かって突進する「信念」や「正義感」だけがロマン化される。この物語では、あらゆる「造反」の根拠は私化されていて、その外へと広がりを持たない。そもそも物語の登場人物自体が、警察官かその私的な知り合いの女性のほかは、「三億円事件」の関係者およびその肉親に留まっている。
 このステロタイプで囲い込まれた世界観の中で逸脱者としてふるまうのは、やはり最初からステロタイプな「はぐれ者」たる、奥田のような人間だけである。しかしそれだけでは身動きがとれないので、彼は若手の渡辺を巻き込むのである。
 『ロストクライム』において、奥田演ずる老刑事の態度には、極めて父権的なものが表れている。子供のいない奥田にとって、渡辺との関係は、明らかに父子関係として想定されているし、数年前に病死した妻の代わりに「内助の功」を示してくれるのは、同年代の旅館の女将である。これらはいずれも、老年男性にとっては理想的なロマンではあろうが、それ自体が身勝手さを感じさせる妄想でもある(注5)。
 これを受け止める渡辺の方はといえば、奥田の父権的態度に当初は反感を抱きつつも、徐々にそれ自体に飲み込まれていく。この姿は、全共闘世代の語り手のマッチョな態度に辟易するそぶりを見せつつも、そのロジックは共有していくような、後続世代の論客たちのそれに重なる。奥田演ずる老刑事のような後続世代へのロマンは、強引で身勝手で一方的なものとして拒否されるのではなく、むしろ苦笑されボヤかれながら、しかし最後には進んで摂取されるのである。

 現代の“68ブーム”を生み出している出版・言論界にも似たような風潮がないだろうか。全共闘の「世相」を何らかのかたちで体験した(直接に参加した世代でなくとも)人々は、そうした同時代的な「感覚」を、あらかじめ自分たちだけにしか共有できない形で示して互いに肯きあっている。社会的な意義などは、決まり文句以上のものとして明示されず、ただ秘教化された何らかの真理が背景に横たわっているかのような「空気」が醸し出される。そこに新たに参入しようとする人々は、この「空気」を読み取り、それを内面化することで、何かを理解したような気分になる。そうした「洗礼」を経ることが、思想やイデオロギーでなく、「世相」を感じ取るということになっている。
 しかし実際にはこれは、ある互いに癒着しあった集団の思考様式を、無批判に客観的把握として受け入れているだけである。苦笑や辟易するようなそぶりは、「心底信じ切ってなどいませんよ」と自他に示すための保険にすぎない
 こういうだらしのない癒着状況を「思想」や「言論」を売り物にする業界が率先して呈しているのであれば、彼らの志向がそれほどメジャーにならないのも頷ける。だがこうも考えられる。彼らは一般的に見てマイナーな位置に留まり続ける(ことしかできない)からこそ、造反者として振舞っているように見せることができるのではないか、と。
 もちろん完全にマイナー化されてしまえば、ポーズとしての「造反」でさえも、それとしての力を保ち得ない。だからこそ、そこでは「思想」や「言論」ではなく、感覚的な癒着がより一層重要になる。本当に「造反」するのではなく、しかし仲間内では互いの行為をラディカルなものとして称揚し合うような関係性(注6)が維持されるためには、実はまっとうな左翼イデオロギーこそが、まず最も邪魔なものになる。現代左派からしばしば左翼イデオロギー(のみ)が忌避されているのにも、こうした背景があるのではないだろうか。

 おそらく“68ブーム”は、現代の思想状況を問い直し、左派の社会運動を立て直そうとする性格のものであるよりは(そうしたことを企図する人もいるだろうが)、全共闘世代の一定の文化人とその同調者たちが、自分たちをなおラディカルであるように見せつつ言論市場での商品価値を保つための活動たる性格の方が強いだろう。しかし前述のような癒着関係は、かえって前提のない読者には、極めて正当にも胡散臭くうつるものであろうから、これらの論者が影響力を減衰させてきたのは必然である。
 映画『ロストクライム』においては、老人の自己中心的な思い入れに、若者が何の客観的意義も示されないまま、人生を棒に振ってまで付き合ってくれている。しかし現実の若年世代が、このような形で全共闘世代が今なお拘泥する世界観に同調してくれるとは考えがたい。たとえ年若い人々であれ、本来はもう少し主体的な、独自の思考様式を持っているものだからである。



(注5)本作がむやみに「濡れ場」を挿入しているのは、そもそも男性観客を想定しているからだろう。なにしろ出演している女優の大半に、そうしたシーンが設けられている。なお中盤、警察上層部に追われる奥田と渡辺の二人が、渡辺の元同棲相手の女性に助けてもらうシーンがある。ところがそこで奥田が渡辺に「ラブシーンは短めにな」と皮肉を飛ばすので、それが何やらメタ的な作品批判めいてしまっているのには苦笑させられた。

(注6)『ロストクライム』のパンフレットに粉川哲夫が1968年論を寄稿しているように、全共闘に何らかの形で関与したか、あるいはそこにノスタルジックな思い入れを持つ映画作家と批評家との癒着は、近年でもよく目にすることができる。たとえば若松孝二に対する四方田犬彦、またたとえば押井守に対する上野俊哉などは好例であろう。もちろん作家と批評家が文化サークルを作るのは悪いことではないが、この場合の繋がりは、作家が新作を公開するたび、批評家がそれをお約束のように称揚するという停滞した癒着関係でしかない。こういう主体性の無い相互のもたれ合いから、生産的な文化が創造されるとは考えにくい。
スポンサーサイト
プロフィール

zentaitsushinsya

Author:zentaitsushinsya

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。