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「寛容な権威主義」について

 先ごろ亡くなった武井昭夫が、生前に大西巨人との対談で興味深いことを言っていた。以下引用する。

武井 そうですね。「Aである」という言い方が好まれなくなってから、ずいぶん経つような気がします。労働組合や民主団体で、なんでもかんでも「……と思います」というのが流行りだした。「これから会議を始めたい、と思います」と言う。「始めます。」と言うべきところをなんとなく、もやっとさせる表現に全体が引きずられていく。一九七〇年代の半ばくらいから、こうした曖昧な言い方が各方面で幅を利かせるようになりましたね。
大西 「Aでもなければ、Bでもない」という言い方を認めることが民主主義的だ、と勘違いしている人も多い。

「二一世紀の革命と非暴力―大西巨人氏との対話―新作『縮図・インコ道理教』をめぐって」『“改革”幻想との対決 武井昭夫状況論集2001-2009』スペース伽耶、2009年、初出:季刊『社会評論』141号(2005年春号)

 これは一考に値する指摘である。私も自分が文章を書く時、特に自信が無い場合、「~したいと思う」という表現を、つい使ってしまう。個人の文章ならば、まだしも文責の所在がはっきりしているが、社会運動などの公的な現場で主催者や集会の司会者がこういった言葉遣いをするのは、より深刻な事態であろう。
 「~したいと思う」というのは、柔らかで自分の主張を押し付けない物言いでは、実はない。むしろこれは「これからこのようにしますが、皆さんにもご異議はありませんね?」ということを暗に言っている。もちろん聴衆に異議など無いことが前提である。
 このような言葉遣いは、「~する」ということの主体と責任を、自らが引き受けるのではなく、それに暗黙の同意をした(とみなす)一般聴衆へとシフトさせることを意味する(注)。それによって本来の行動の主体は、責任をとらずに済むことになる。また、公的行動とその結果ではなく、それを導き出した内面を見て欲しい、という欲求は、うまく結果責任を回避する巧妙な戦略でもある。いずれにせよ無責任な態度と言うほかない。
 そしてこうした態度は、たとえば近年の行政が、ある政策案に異議を持つ人々の意見を聞く場を持ちながら、実はその政策の施行が規定路線であることはあらかじめ決まっていて、談合の場を持ったことをアリバイとして、粛々として事態を進行させていくという構図へと、さらなる抑圧の深まりを見せてもいよう。

 こういうソフトな抑圧、「寛容な権威主義」とでも呼ぶべき態度が、現代社会に瀰漫している。これが高ずると、自分と意見が対立しそうな人間を前にした人は以下のように先手を打ちはじめる。「批判がおありならどうぞなさってください」。しかしこれは、敵対性が本当に露になる前に、その出鼻をくじこうとする無意識の働きである。このように一見して「下手」に出られた上で、徹底的な批判を行ったならば、批判者はむしろ無礼で不寛容な人間であるかのように見えてしまう。
 概ねこうした「寛容な権威主義」的態度は、年嵩であったり、あるいはある程度の社会的地位を得ていたりする人間により、若輩ないし無名の人間に対してとられることが多い。こうすることによって、「批判に開かれた自己」と、「矛盾に引き裂かれつつ葛藤する内面性」を演出しつつ、しかし露骨な敵対性はあらかじめ切り捨てるか回避することができるのである。
 真に「権威主義的」な態度を忌避しようとするならば、武井と大西が述べているような「もやっとした」「曖昧な」物言いから内面の多様性を匂わせる姿勢は、十分に慎まれるべきだろう。



(注)もっとも「日本国憲法」ではそもそも第一条からして天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」と、その「主権」をあらかじめ簒奪して語られているので、これは極めて「日本的」な現象であるのかもしれない。
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