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行動する自己愛

 少し前のことになるが、ドキュメンタリー映画『チェルノブイリハート』を見る機会があった。結論から述べるならば、控えめに言っても大変違和感のあるドキュメンタリーであった。
 本作の監督であるマリアン・デレオの振舞いには、ドキュメンタリストとしての社会的な立場という点で重大な欠陥があり、その割に情報や提言という意味では、さほど有用なものは見られない、ただ凡庸な視点で構成された作品だと思う。
 本作には、カメラに映し出される対象に対して自らの立場を問い直すような自省的な姿勢が見られないし、また対象そのものに寄り添う――「寄りかかる」という意味ではない――生活誌的な視点もない
 本作で強調されて(しまって)いるのは、いわゆる「行動するジャーナリスト」としてのデレオと、彼女によって対象化される障害児たちの姿、ただそれだけである。
 冒頭から違和感はあった。前情報を得ていなかった私は、東欧を主たる舞台にするこの映画が始まったとき、取材者の間で交わされている会話の言語が英語であること自体に驚いたのである。遅まきながら、入場時にもらったチラシを上映会場の暗闇の中で見直してみると、確かに「アメリカ映画」、「アカデミー賞受賞作」と書かれている。
 ならばこの監督は異邦人として、チェルノブイリの原発事故の後を生きる人々に、どう向き合うのか、その姿勢が問われることになる。この点で、本作は大いに失望させられるものだった。

 デレオは、体内被曝した障害児たちが暮らす施設を訪れたとき、看護士がぞんざいに子どもを扱ったとして、「もっと優しく扱ってあげて」と再三にわたって注意を促す。看護士はしまいには気分を害して、その子はもう成長しないのだからと言い捨ててその場を去っていく。この場面だけを見れば、その障害児は、悪しき介護環境に捨て置かれているように見える。政府も社会も、そしてこの看護士も、ただ酷薄にこの児童に接しているように見える。
 だが、デレオは異邦人である。デレオがチェルノブイリの取材を始めたのは、2002年ということだった。そしてこの映画は2003年に公開されている。彼女は写真やメールなどで、確かにこれらの児童たちのことを知っていただろう。だが、この施設の看護士たちは、あるいはそれよりずっと前からこの障害児たちに接しているのかもしれないのである。それもおそらくは、決して治癒しないことを知りながら。
 根治しないことを知りながら行う看病というのは、やるせないものである。無力感は投げやりさにも繋がる。
 一方、たまさかにやってきたジャーナリストが、日々その対象に接している看護士よりも多くの愛情を注げるのは当たり前のことだ。日常的に付き添っているわけではないのだから。そのことについて、このシーンはあまりに鈍感である。取材でしか対象に接しえない自らの立場に自覚的であったら、このような構成には決して出来ないだろう。それは看護士の恥ではなく、自らの恥を映したシーンに他ならないからである。
 同じようにデレオは、アルコール中毒の両親のもとで暮らしている子どもにもカメラを向ける。父親が撮影をしないようにスタッフを怒鳴りつけるので、彼女たちは少しだけカメラを回してその家を去るのだが、その後のデレオの言葉には、カメラを向ける自分たちへの内省はうかがえず、代わりに子どもの生活に対する憂慮だけが見られる。

 いま一つ失望させられたのは、先天性の障害に関する治療を受けた少女に、デレオが「アメリカ人の医師に感謝ですね」と声をかけるシーンである。いったいこの発言は何なのだろうか。彼女には執刀医の国籍が重要なのだろうか(患者にはそのようなことは問題ではないだろう)。それともこれがアメリカで上映(ないし放映)されるドキュメントであるがゆえのリップ・サービスのつもりなのだろうか。
 そもそも、なぜデレオはアメリカの原発ではなく、チェルノブイリを選んだのか。国境を越えた普遍的な視点から見ているのだとは言えないはずだ。ならばなぜ医師の国籍を口に出す必要があったのか。

 いったいデレオは原子力発電所を抱える自国について、どう考えているのか。デレオの来日を報じたニュースには、彼女が「現実問題として原発を全廃することは難しいのでは?」と語ったともある。するとデレオは、事故が起こらず、たとえば胎内被曝によって先天的な障害を背負った子どもたちが生まれてこないような原発の運用ならば認める立場ということにならないだろうか。
 この立場は私には馬鹿らしく思える。原子力発電に限らず、絶対に事故やミスの起こらない技術運用のあり方を想定するのは、はたして「現実」的なのだろうか。試しに原発とその関連施設で働く人々――下請け労働者だけでなく技術者や、電力会社の経営陣も含め――にそう説いてみるといい。どんなに誠意があって善良な職員であっても「出来る限り努力いたします」という以上の答えは出来ないだろう。逆に、どんなに不誠実な職員でも「故意に事故を起こしてやろう」とは考えないはずだ。
 結局のところ、事故を起こさないで欲しいというような議論は、自分が原子力発電の作り出す社会的なシステムの外部にいる(と錯覚している)からできるものであって、これ以上「現実問題」から遊離した立場はない。

 マリアン・デレオのプロフィールを見ると、彼女はドキュメンタリー映像作家として、これまでもレイプ、ホームレス、薬物中毒などの問題に取り組む一方、湾岸戦争下のイラクにも取材に赴いているという。特にイラクからは未検閲の映像を持ち出して物議をかもしたとあるから、自国のイラク政策に対して従順ではない(つもりである)のかもしれない。
 だが、チェルノブイリ周辺の児童たちを扱うデレオの手つきからは、他国の「人権侵害」を非難することばかりに血道をあげる人道的介入論の親類のようなロジックしか感じることができなかった。デレオがアメリカ人であるという立場から被曝障害児たちが置かれた現状を批判する一方で、わざわざアメリカ人の行為として医師の活躍を賞賛するとき、そこにあるのは「国際的連帯の精神」などというものではなく、ただアメリカという国家の手がチェルノブイリの事故被害の収束にも一役買っているという形の印象の提示である(注1)。これは当の医師たちの意図にすら、かなっているかどうか怪しいし、アメリカのイラク政策に対する批判という立場とも、本来的には矛盾するものだ(注2)。
 デレオ自身はアメリカのジャーナリストであって、チェルノブイリ周辺の住人でもなければ、それらの人々を治療する医師でもない。障害児たちにデレオが示す愛情や同情は、このドキュメンタリー映画を通してスクリーンやモニターの前の鑑賞者たちにも共有されよう。だがそれは決して当事者のそれではないのだから、せいぜい赤い羽根共同募金よりは、やや具体性のある共感の共同体を一時的に作るに留まらざるをえない。そこから踏み出すには、何よりも自分たち自身を取り囲む状況へと問題を投げ返す必要があるのだが、この作品にはそれがない。アメリカでは核関連施設から放射能が撒き散らされたことなど全くないといでも言うのだろうか。
 作品が収まるべき上映/放映の尺の問題があるのだと言うかもしれない。だが私に言わせれば、現地の児童たちを冷遇する親や看護士たちを一方的に告発するかのようなシーンは、自らが抱えているはずの問題を語るよりもずっと無駄な時間である。
 あるいはまた、この描き方は、何よりもアメリカで作品を公開するために必要な方便なのだと言うかもしれない。これは最初の弁明よりは考慮に値する。アメリカは、ジャーナリストが発言するにあたり、そこまでの苦衷を強いる国家であると言うならば。しかしそうすると、このジャーナリストは一体何と格闘しているのだろうかという疑問も生じる。わざわざ異なる言語を用いる地域に足を運んで、体内被曝した障害児たちの実態を暴露して見せる前に、自国ですることがあるのではないだろうか
 同じように、今現在、本作を上映している日本人たちの行動についても、考えねばなるまい。我々はなぜチェルノブイリの痕を見て学ぶなどと言えるのか。

 ここで思い浮かぶのは、80年代の反原発ムーブメントのことである。スリーマイルとチェルノブイリの相次ぐ事故を受けて、この運動は結構な盛り上がりを見せたと記憶している。そこにはもちろん、優生学的な物言いなどの問題もあった。しかしそれとともに問題だったのは、要するにこうしたムーブメントが外的な事件によってしか隆盛しなかったのではないかということである。
 我々はなぜ、チェルノブイリやスリーマイルやラ・アーグなど、海外の核施設の事故を問題にしてきた(いる)のか。我々の国に原発があるというのに。そしてそれらが、イレギュラーな事故を日常化させてきたというのに。
 外部で事件が起こらないと内的な問題に気付けないというこの日本社会の言論状況は、戦争責任論や植民地支配責任論をめぐるそれと、ほとんど相似形をなしている。結局のところ外的な力が働かないと、想像を巡らせるということすらしないのである。
 従ってそれに対する言い抜けも、あらかじめ用意されている。戦争/植民地支配責任論に対する否定的な応答が、現在の相手国の「人権問題」や外交関係を担保にしてなされるように、他国の核施設の事故に対する応答も簡単に済ますことができる。ソ連は独裁的な全体主義国家であったから、アメリカは軍産複合体が核開発を手ばなさないだろうから、だから日本とは違う。このように言ってしまえば、もう問題は他人事になるのである。憲法九条があるのだから、と付け加えれば、もう一切の不足はない。むしろ他国の原発事故を見ることによって、結局は日本国内の原発に対する安心感が高まるのである(注3)。
 この映画を通して日本人が原子力の脅威を日常的に意識するようになるとも思えない。この映画自体の欠陥も、また他国の事故を通して学ぶという姿勢それ自体の欠陥も、そのような効果を保証していないどころか、全く正反対の結果をもたらす可能性すらある。

 色々な映画があってよい、という意見もあるだろう。だが本作は、果たして多様な見解の一つに数えられて良いかすら怪しい。デレオの提示しているのは見解というほどのものではなく、ただ行動する自己愛ではないのか。それはついに、自己の批判的点検には至ることのできない類のものだ。原子力発電のシステムの中に住む我々にとって、それは有効な態度だろうか。
 我が国の核政策をめぐる問題――原子力発電に限らず――を自ら抉り出すことができなければ、「脱原発」など、四半世紀前のムーブメントと同じく、所詮は尻すぼみに終わるだろう。



(注1)あるいは「ロシア人やウクライナ人には事実を報道するような自由すらないだろうから」などという意見があるかもしれない。だがそのような認識は、「報道の自由」を備えたアメリカに核被害の否認や遺棄といった問題など存在しないと、多くのアメリカの一般市民に錯覚させ、また安堵させる結果を招くだけである。
(注2)もっともイラク戦争に対するデレオの立場が、たとえば劣化ウラン弾の使用に特化した批判しかしないというものならば、彼女の中では一貫性があることになるが。
(注3)このように考えないとすれば、それは原発に対する価値判断があらかじめ決まっているからである。だがそれならば、なぜわざわざ他国の事例を通してそれを言う必要があるのか。
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テーマ : ドキュメンタリー
ジャンル : 映画

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