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ある「友愛革命」論者の政治哲学から―小林正弥・著『友愛革命は可能か 公共哲学から考える』をめぐって(1)

 私が読んだ小林正弥氏の最初の著作は、2003年に発刊されたちくま新書『非戦の哲学』であった。率直に言って、私はこの時、論壇やウェブ上の極右勢力が、左翼をわざと「誤って」表象してみせる、そのステレオタイプに見事合致してしまうような学者が存在することに大変驚かされるとともに、頭を抱えた 。ほとんど雪男かツチノコでも目撃してしまったような気分であった(注1)。
 小林氏は東京大学法学部を卒業し、同大学の助手を務めた後に、千葉大学法経学部・助教授となり、さらに『非戦の哲学』公刊後に教授へと昇進して現在に至る。「公共哲学」を掲げ、リベラリズムに対するコミュニタリアリズムの立場を明示し、「地球平和公共ネットワーク」等、複数の社会運動に積極的に関与している人物である。その社会的影響力がどの程度のものなのか、今ひとつ計り知れないところがあるのだが、運動が持続し、各種NPOとの交流やテレビへの出演なども続いているところを見ると、その議論には一定の需要があるものと思われる。
 私は小林氏の学術的な著書には目を通していない。講演録やエッセイ的な小文を読んだことはあるが、氏の議論が政治学の分野で専門的にいかに位置づけられているのかについては知識が無い(注2) 。従ってここでは、氏の一般的著作である新刊『友愛革命は可能か』(平凡社新書、2010年)を中心に、適宜、既刊『非戦の哲学』も引きつつ、あくまで一般的な運動論、現代社会論としての彼の議論を追ってみたい。
 なお、引用文中の太字による強調は、すべて筆者が行ったものである。また、一文以上の引用については、本文との混同を避けるため、小林氏の本は青字で、それ以外の本については赤字で示している。

 ではまず、小林氏の新著『友愛革命は可能か』の全体の構成を確認しよう。本書は全6章からなっている。まず第1章で、2009年の政権交代により「友愛」を訴える鳩山内閣が誕生したことの「歴史的意義」が訴えられる。続く第2章では「友愛」概念の歴史的展開がまとめられている。そして第3章では汎ヨーロッパ主義者のクーデンホーフ=カレルギーから鳩山一郎、そして鳩山由紀夫へと至る貴族的友愛主義の系譜が、第4章ではキリスト者である賀川豊彦の「友愛」思想とその実践が説明される。ここまでが「友愛」概念を小林氏なりにまとめた部分であり、以降が氏による政治的提言ないしは社会運動論となっている。第5章は「友愛革命による日本ルネッサンスを」と題され、「友愛」に基づく諸変革の重要性が説かれる。そして第6章「友愛世界への道」では、さらに具体的に、日本における「友愛」的政策の理想像が説かれていく。
 小林氏が『友愛革命は可能か』および『非戦の哲学』で展開する具体的議論からは、いくつかの特徴が抽出できる。おおむね以下のようなものである。

・平和主義の要として、「反戦」に代えて「非戦」・「墨守非攻」を提唱
・地球的規模での「友愛」ネットワーク構築による社会変革を目指す
・マルクス主義の全面的否定
・スピリチュアリズムへの傾倒および、精神の重視

 つまり、戦争の否定と平和主義の立場に立って、地球的規模での「友愛」を唱え、その基盤としては旧来の左翼思想に代わるものとして、精神のあり様そのものを重視していることになる。理論的には後の二つが核心にあり、前の二つはその具体的顕現であると言えるかもしれないし、あるいは前の二つを導くためには、必然的に後の二つの論理が必要とされたのかもしれない。
 氏の著作では、従来の左翼思想一般の否定という傾向が顕著である。「反戦」や「平等」、「連帯」といった言葉を使うことを避け、「非戦」、「公平」、「友愛」といったタームを用いているのも、極めて意識的なものである。たとば「自由・平等・博愛」という理念は、氏によれば「友愛・自由・公平」へと置き換えられる(注3)。
 更に具体的な一文もある。以下に引用を示す。
「史的唯物論が誤りであり、階級闘争史観もまちがいであり、労働価値説も誤謬であり、したがって搾取論も誤りであり、またプロレタリアート独裁という革命論も、民主集中制を始めとする組織論も運動論も、ことごとく誤りである」
 これは『非戦の哲学』226頁からの引用だが、私はこの一文を見たとき、この著者は本当に東京大学で政治哲学を体系的に修めた人物なのだろうかと訝しく思った。どうも権威主義的な考え方で恥ずかしいのだが、東京大学を卒業し、地方の国立大学へ天下るような学者であるならば、たとえ保守的であっても、このような雑駁な物言いはしないで欲しいと思ったのだ。

 上記の一文は、リオタールなど、いわゆるポスト・モダニストによる「大きな物語」の否定に対する再批判として差し出された議論の一部である。小林氏によれば、マルクス主義の「大きな物語」が誤りだっただけであり、それをもって「大きな物語」一般を否定することは出来ない、ということになる。なるほど理論的なレベルにおいては的を射た考え方である。
 しかしながら、小林氏の議論は驚くほどに悪しきポスト・モダニストのそれに近い。特に科学的・理論的な思考は「唯物論的」であるとして、その限界性を唱え、感性による行動の価値を見直すよう呼びかける態度は、むしろ「大きな物語」一般への批判(社会を包括的に把握・説明できる理論などないという認識)であると同時に、ポスト・モダニズムの淵源たる1960年代後半から70年代初頭のかけての資本主義先進国における「反乱」がもっていた、ニューエイジへの関心を共有しているだろう。

 実際、小林氏の議論では、前述したようにスピリチュアリズムへの傾倒が顕著である。本人もそれを隠そうとしていないばかりか、読者に対して積極的にその価値を訴えている。これからあげる具体的事例は、あまりにも常軌を逸していると思われる向きもあるかもしれないので、予め断っておきたいのだが、これは私が氏の議論を誇張し戯画化しているのではない。
 私にとって最も衝撃的だった具体的事例をあげよう。氏は2009年に誕生した鳩山政権の意義を高く評価しているのだが、鳩山由紀夫個人に対しても、相当に好意的である。たとえば2010年1月29日の施政方針演説についても魂が震えるような感動を呼び起こすだろう」と述べ、反応が冷淡なメディアを通してではなくその原文にあたれば「日本政治において、新しい可能性が誕生しつつあることを心で感じることができるだろう」と絶賛している。もともと小林氏がかかげていた「友愛革命」なる概念(すでに『非戦の哲学』に、この用語は見られる)と重なり合うかのように、「友愛」をキーワードとする鳩山が新政権の首相職に就いたのだから、困ったことに思わず熱狂してしまっているのかもしれないが、それだけではない。
 小林氏は鳩山由紀夫の配偶者である鳩山幸が雑誌『ムー』で対談を連載した経緯があり、またそれが単行本としても刊行されていることを紹介している。もちろん批判的ないしは揶揄的な意味があるのではない。むしろ「鳩山由紀夫氏は、科学の限界を自覚しているだけではなく、不可視の超越的な世界の存在を信じているようである」「鳩山首相が夫人の感化もあって、スピリチュアルな「友愛」の理念を抱懐するようになったのは、素晴らしいことだと思われる」といった記述に見られるように(注4)、小林氏はニューエイジや不可知論に、大きな意義を見出しているのである。それにしても、文理を問わず現代科学の理論一般に未だ不足な点があることは確かだろうが、それをもって科学的思考の一般的かつ永久的な「限界性」の証拠であると訴えるのは、彼が批判していた、マルクス主義の不備を論拠に「大きな物語」一般の意義を否定する議論と同様の飛躍ではないだろうか。



(注1)もっとも氏を「左翼」と評することは、左翼から見た場合はもちろん、当人にしてみても不本意なことだろう。
(注2)小林氏の論考は、千葉大学学術成果リポジトリに、いくつかPDFファイルがアップロードされており、ウェブ上で閲覧することが可能である。新刊の内容に近いものとしては、「公共的霊性と地球的平和:新しい平和運動の構築に向けて」などがあるが、これも50ページ近い講演録なので、読み通すには、なかなかの覚悟と忍耐を要するかもしれない。
(注3)語句の順が変わっていることも、おそらく重要である。
(注4)繰返すが、これは私の捏造ないし誇張ではない。どうしても本文にあたって確認したいという慎重な方は、『友愛革命は可能か』100~104頁、「愛の政治―――夫婦愛と超越的理念」の項を読まれたい。なお、小林正弥氏の研究室のオフィシャルサイトには「日本史上初の「選挙による本格的政権交代」:「友愛革命」への起点となりうるか?」という時事論が掲載されている。この論考の注(4)では、鳩山幸が「大衆的雑誌や右派的雑誌」から、「オカルト的」であると「揶揄」されたとの指摘がある。もちろん小林氏は、これらの「揶揄」に批判的なのだろう。
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