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男たちの桜田門外 ―テロリスト、あるいは特攻兵士への情緒的共感―③

 ところでこの映画には、大変に飛躍した、というよりも有体に言うならば、一見して杜撰に思えるカット割りが何箇所か見られる。一つは大沢たかおが郷里に残した内縁の妻とその子の様子をこっそりとうかがいにいくシーンである。妻子は夫が「桜田門外の変」の首謀者の一人であったことで、元いた家に住んでいられなくなり、今は山奥で小さな畑を耕して生活している。密かに帰郷した大沢が林の中からそれをのぞき見ると、妻子は実にけなげな会話をしてみせる。そしてその様子に大沢は胸を打たれるのである(注2)。
 しかしこのシーンのカット割りからは、両者の客観的な距離感がほとんどつかめない。このシーンは、ほぼ母子が農作業に勤しみながら会話をしている、いくつかのショットと、大沢のバストショットを往復するだけなので、この家族がどのくらい物理的に隔たっているのかが、今ひとつ鑑賞者には捉えられないのである。
これは心ならずも引き裂かれた家族という悲劇の構図で泣かせにかかるならば、致命的なミスなのではないかと思った(注3)。確かに、ある程度の遠景から母子を捉えたショットもあったと記憶しているが、これが大沢の主観ショットだったとすると、距離がいささか近すぎる。つまり見つからないのが不自然になってしまう。なにしろ周囲に他の民家もない、人の寄りつかない山奥なのである。
 もっとも仮に、大沢を背後からとらえ、その視線のはるか先に大沢の妻子を配したショットを挿入していた場合、演出的な問題は軽減されただろうが、同時に別の問題が生ずる。それほどの距離であった場合、大沢には妻子の会話が聞こえないはずだから、その会話を聞いてから、胸を打たれたかのような表情になる演出はおかしいことになるのだ。つまるところ、見せたい物語的な構図と、映像的な演出が乖離し、破綻しているのである。

 だがこの演出は、実のところこの映画全体に漂う情緒主義が集約されたものなのではないかとも思える。
 そのことを説明する前に、今ひとつ似たようなシーンを紹介しよう。映画の終盤で、大沢は同じ水戸藩士(正確には井伊暗殺前に大沢は脱藩しているが)によって捕縛される。捕縛のきっかけになったのは、大沢を途中まで送り、その世話をしていた男が捕らえられ、口を割らされた挙句に道案内をしてきたからである。大沢は宿の二階で、知己の間柄であった追っ手と、捕縛されながら会話を交わす。その間、大沢を売ってしまった男は、大沢の泊まっていた宿の前で、ついには泣き崩れる。
 位置的なことを考えれば、男に水戸藩士たちの声が聞こえるわけもなく、その会話の内容の悲壮さに、自らが背負った(背負わされた)業の深さを気付かされて泣き崩れたわけではないことは分かる。だが、男が単に自分の負い目を悟って泣き崩れるのならば、わざわざ水戸藩士たちの会話シーンにそのショットを挿入する意味がない。むしろもっと早く泣き崩れてもいいはずだ。おそらく演出的には、この男は全てを鳥瞰している観客の代わりに泣くのである。宿内の会話が聞こえるはずもないのだが、それでもこの場面を見ている観客が感情移入できる、「悲劇」の傍観者として、このタイミングで泣くのである。



(注2)ところで大沢は、驚いたことに江戸に別個に愛人を囲っている。しかも軽いラブシーンまである。その上、この愛人は事件が起こった後、役人に拷問されて死んでしまうのだが、最終的に大沢が斬首される際には思い出されることもない(妻子は、顔を覆う白紙の内側にその像が浮かび上がるという、大変に凡庸な描写があった)。一度でも辟易するというのに二度も、しかもそれぞれ別の女に送り出される「使命を帯びた男」のシーンを見せられたことで、私の鑑賞のモチベーションは序盤から相当に下がった。

(注3)なお、後日参照した『キネマ旬報』の特集では、ここの「距離感」の描写が、むしろ称賛されている。評価は全く違えども、このシーンに注目すべきであるという私の視点は、どうやら裏付けられたようだ。
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テーマ : 邦画
ジャンル : 映画

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