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男たちの桜田門外 ―テロリスト、あるいは特攻兵士への情緒的共感―④

 つまるところこの二つのシーンの、位置関係を不意に飛び越えてしまうかのような「杜撰」な演出、主観性のみに押し込められた映像―物語表現は、この映画自体が、あらゆる情報を鑑賞者にフェアに提示し、登場人物たちの動向をロジカルに追わせようとする誠実さを備えていないことを示していよう。
 もちろん客観的な図式の説明のみに終わる映画は、おそらく大変に退屈なものであろうから、幾人かの登場人物の主観性を重ね合わせて物語を構成すること自体は否定しない。しかしその場合、登場人物たちの価値観は、それぞれ他者のそれを通して相互に客観化されることによって、物語に重層性を与える機能を担うものではないだろうか。
 ところがこの映画では、暗殺対象となる井伊には、過剰なまでに慇懃無礼な演技があるのみで、そのロジックなど全く描写されていない。見始めた当初は、もう少し群像劇的に水戸藩士と斉昭、井伊などを対比して描いていくのかと思っていたのだが、結局のところこの映画には、水戸浪士の行動や、彼らをあえて捕えようとする斉昭への共感はあっても、暗殺対象たる井伊には、全くそれがないのである(注4)。
 この映画に一貫しているのは、何かご大層な業を背負い、その悲劇の中で押しつぶされていく人間たちに、情緒的な共感を向けて泣くよう仕向けることだけである。井伊直弼暗殺というテロリズムは、そのための前提なのだ。開始40分で「桜田門外の変」は終わってしまい、残りの3分の2以上の時間が、回想シーンを交えつつも、水戸浪士たちの「その後」を描いていることからも、それは明白である。彼らが背負った「業」や「悲劇」は、昨今の日本映画によく見られる、白血病や末期ガンといった記号化された死病と、描写としては大差ない。
 唯一違うのは、死病ものの映画が一貫してドメスティックであり続けることで、しばしば家族イデオロギーを再生産しているのに対し、この映画は、無媒介に憂国へと飛躍するという特徴を備えていることだ。多くはまだ年若い「男たち」が懸命に考え、議論し、時には傷つけあい、あるいは暴発し、最後には死んでいく。その経緯の痛々しさは、情緒的に共感され、同情され、そうして消費される。それで残されるのは、彼らの内実に欠けた熱情のみである。

 こうした意味で、『桜田門外ノ変』は『男たちの大和/YAMATO』と全く同じ主題を、全く同じように描き、全く同じように盛大に破綻した映画であったと言えよう。
 もっとも戦後の日本映画には、既に情緒的な戦争映画、テロリズム映画の長い系譜がある。佐藤純彌が育った東映にも、その傾向は根強くある(これについては煩雑になるので、いずれ別に論じられればと思う)。従って佐藤は、ある俗流の話法に従って映画を撮ってみただけなのかもしれない。むしろそう考えた方が、各所の凡庸な描写に納得がいくというものだ(注5)。
 あるいは森のように、私的・主観的なものを守ることが、「イズムに迎合」しないためのリスクヘッジになるのだと考える向きもあるかもしれない。だが、既にこのような考え方は有効性を失っていると考えるべきだ。
 たとえば数年前、石原慎太郎が制作総指揮をとり、脚本を執筆した特攻隊の映画のタイトルは『俺は、君のためにこそ死ににいく』であった。ここでいう“君”とは私的に想う人のことであって、“天皇”を意味する“君”ではない。現代的な「イズム」は、むき出しのイデオロギーや絶対性の鼓吹ではなく、むしろ私的情感を重んじた上で、それを包摂するかたちで機能している。従って私的情感に寄りかかり、またそこに充足する志向を抜け出せない限り、むしろ「イズムに迎合していない」どころか、単に俗流化したイズムに従属してしまうという結果を生むだろう。
 主観的には懸命かつ誠実な心情に基づいて行動した、ということを、その行動の客観的な結果の評価に繋げ「共感」してみせることは、現在においてはもっとも忌むべき行為である。



(注4)これはこの映画が「水戸藩開藩400年記念」として茨城県下の政治家や諸団体の長、文化人などが名を連ねる「映画化支援の会」の協力を受けているからかもしれない。しかし、こうした重層性に欠けた人物描写は、この映画の物語性を著しく損ない、かえってその熱烈なPRぶりに鑑賞者を鼻白ませる効果を担ってしまってはいないだろうか。
 なお、同委員会の設立趣旨には、まるで水戸学が「アジアの夜明けを切り拓いた歴史的な役割や思想」にまで繋がっているかのごとく書かれているが、これはいくらなんでも我田引水とナルシシズムがすぎると言うものだろう。たとえば孫文やガンディーが水戸学の影響を受けていたとは、とても思われない。さらに言うなら、別段「水戸藩」が現存しているわけでもないのに「私たちの水戸藩」と言えてしまう委員会の文言は、私には理解しがたいものだ。
 いずれにせよ、この他者性に欠けた主観性偏重とナルシシズムとは、大変に鼻につくものである。

(注5)佐藤は『男たちの大和/YAMATO』を作ったときに、東映会長の岡田茂から、それが「立派な反戦映画」であるとの称賛を受けたという。ちなみにこの岡田は、かつて東映の前身である東横映画に入社した後、『きけ、わだつみの声』(1950年)をプロデュースした人物である。同作の監督は戦後の東宝争議で解雇された関川秀雄だが、別段岡田自身が「左傾」していたわけではない。むしろ岡田がこの映画をプロデュースしたのは、同年代の戦没学生たちの「鎮魂」のためであり、天皇制批判を描くべきだと主張する全学連に対しては、そうした批判を説得する側に回っている。この時点で、『わだつみ』を巡る解釈のせめぎ合いは、右派とは言わぬまでも内向的な保守主義者の側に軍配が上がったと見るべきだろう(もちろん「わだつみ」自体がそうした限界性を備えていたと言うこともできるが)。
 岡田の「反戦映画」への志向は、言って見ればナベツネが靖国神社を憎悪するのと同じようなもので、おそらく日本国民の自己憐憫感情の表れにすぎない。本来、こうした志向をいかに乗り越えるかが「反戦映画」には問われていたはずなのだが、少なくとも「戦後六十年の繁栄は、日本が軍備を持たなかったからできたこと」などというナイーヴな見解を述べてしまう佐藤純彌には、それは荷が重すぎたということだろう。
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テーマ : 邦画
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