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これからの「共和主義」の話をしよう ―小林正弥とともに、鳩山由紀夫は抜きで―(3)

 この小林の、大変にユニークな「共和主義」認識を支えているものこそ、第二の問題である。
 350ページ以上もある新書で、アメリカの政治学者の思想的系譜を論じておきながら、それと日本における文脈との相違を「地域の個性や必要性」に帰着させる議論に、私は何やら懐かしささえ覚えた。ここに見られるのは、ヨーロッパにおける史的発展段階を普遍的なものとみなす西洋中心主義を批判することで、逆に自国の君主制の存在については地域的・文化的特性として擁護するという、文化相対主義的なポストモダン型保守主義の周回遅れの姿である。小林正弥がポストモダニズムを批判しながら、実際には極めて悪しきポストモダニストであるということは以前に述べたが、やはりここでもその通りである。
 もっとも、ここまで「地域の個性や必要性」が重視されるのならば、世界のどこにでも「コミュニタリアニズム公共哲学」が見出せるのではないだろうか。たとえば氏が言下に切って捨てていたような、世界各地の「マルクス主義的な運動」は、独自に新たな政治的共同体を志向したものと捉えることができようが、しかしにもかかわらず、どうやら「公共哲学」には入れてもらえないようだ。おそらく小林にとってそれは、論理的に受け入れられないものである以前に、「魂が震えるような感動」をもたらさないものなのだろう。

 また、この共和制と君主制が結合した「近世的共和主義」なるものが、「新共和主義」、あるいは「公共主義」なる新概念へと「発展」するという議論にも、やはり懐かしさを覚える。確か江戸時代が既にポストモダンであったとか、したがって近代化を十分に成し遂げていない日本は近世から後期近代への以降がかえって容易にできたのだとかいう議論がかつて一部で流行っていたように記憶しているのだが、ここでも小林正弥の見解は、そうした日本的な俗流ポストモダニストたちのそれに限りなく接近してしまう。
 さらに言うならば、『友愛革命は可能か』においては、「共和主義の歴史的展開」が、「古典的共和主義、古代的共和主義、中世的共和主義、近世的共和主義、近代的共和主義」と、クロノロジカルに示されていたのに対し、『サンデルの政治哲学』においては、その歴史的発展段階の軸が棄却され、むしろ段階的な区分そのものが解体されて、時間の中をさまようような、ポストモダンな歴史認識へと展開を見せているのも興味深い。だがこうしたことは、自らがポストモダニズムに批判的であると考えている小林自身には、決して意識されていないことだろう。
 そういえば小林は、かつて『非戦の哲学』で、坂本龍一に対し非常に好意を示していたが(pp.195-196)、いっそのこと中沢新一あたりと研究プロジェクトを同じくしたら、大いに意見が一致するのではないだろうか。

 小林のような、相対主義と新進性の希求の併存は、ポストモダニズムについての理論家である哲学者、フレドリック・ジェイムソンが、おそらくは幾分シニカルに指摘した、理論上のパラドックスに見ることができる。
 ジェイムソンは、ポストモダニズムはどのようなレトリックを用いても、結局のところ「差異」とともに、「新しさ」という極めてモダンな概念に依拠せざるをえない矛盾を抱えていると述べている(注5)。それは“ポスト”という形で自らをモダニズムから歴史的に区切らざるをえない語法に、顕著に表れているだろう。

 小林は、「地域の個性や必要性」を重視するそぶりによって天皇制を肯定的に評価しながら、同時にそれを、無理やりにでも普遍的な概念のもとに位置づけざるをえない。それも、自らの「公共哲学」に従い、「共和主義」の一形態としてでなければならない。立憲君主制では主権者が天皇になってしまうので、それを「民意によって成立した」内閣が「主権在民の原理」によって「利用」する根拠自体が消失してしまうからである。また、より単純な問題として、しばしば保守的な論客によって近代日本史全般の肯定ないし合理化の文脈と結びつけて論じられるケースのある近代天皇制=立憲君主説をとりたくないのかもしれない。
 しかし一方で小林は、天皇制批判の立場をとることによって、自らを革新勢力に位置づけることも決してしない。むしろ、天皇制の肯定的評価を革新的議論として提示するために、自らが「旧弊的」とみなす認識(端的に言えば反天皇制)を覆す新たな概念として、新しい政体の概念を生み出そうとする(注6)。もっとも同時にそれは、旧来の普遍的な概念にも接続されていなければならない。そうでなければ誰かにその価値を伝えることができないからである。
 かくして天皇制を文化的差異として肯定しつつ、新しい共和制という論理のもとにそれを位置づけるという大変にアクロバティックな論理展開が出来する。本来、地域ごとの文化的相違を強調するならば、「国境を越えた」だの「地球時代の」だのといった普遍主義的なロジックを用いなければよいのだが、それでは自分が保守主義者であるか、あるいは知的でないとみなされてしまうと考えているのかもしれない。

 だが、本当はそのような心配はいらないのだ。小林正弥は今でも十分に保守的であるし、またとうの昔に論理的思考という意味での知性からは離れてしまっているからだ。後者については、前著で「科学の限界」の自覚や「不可視の超越的な世界の存在を信じている」人物に対し、極めて高い評価を下していたことを思い出せば事足りるだろう。
 小林正弥がサンデルの紹介者として名を売り、一定の支持を得てもなお、保守的ポストモダニズムの反知性主義的風潮の中でメイン・ストリームになりきれないのは、おそらく氏があまりに正確に自らをプレゼンテーションしてしまっているがゆえに、その造語・造概念の乱脈さが顕著に表れてしまい、政治的オルタナティヴになる以前に、まさにポストモダニズムが寿ぐ差異の一つとして個別に消費されてしまうからである。
 そこでは小林正弥のサンデル論を好んで読みながら、同時に彼が批判する政治思潮を支持することも可能になる。そして実際、両者の現実的な議論において、それほどの開きはないのである。



(注5)『近代という不思議 現在の存在論についての試論』こぶし書房、2005年、pp.11-12

(注6)このことをある知人に話すと、「『天皇制』という概念はコミンテルンがつくったから間違いだ、とそのうち言いだすんじゃないか」という応答が返ってきた。ありそうな話ではある。一昨年末から昨年末への論理の展開を見ていると、本年末にはそうした発言があってもおかしくないと思えてくる。この意味でも小林正弥は、今後の動きから目が離せない「政治哲学者」であろう。
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