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これからの「共和主義」の話をしよう:補足と訂正

 先の拙稿を読み返してみて、この議論への若干の補足および訂正の必要性を覚えた。どうも私も、小林正弥の概念の乱用に振り回されてしまい、「共和主義思想」と政体としての「共和主義」を混同していたようだ。
 改めて小林正弥の見解を確認しておこう。『サンデルの政治哲学』での該当箇所は、先の拙稿を参照いただくとして、前著『友愛革命は可能か』から、以下引用する。

(前略)共和制や共和国という言葉は、国王のない国家を意味するから、日本では共和制は天皇制の廃止を意味することになる。しかし、共和主義は、王制否定の思想に限定されているわけではない、その語源は「公共的なるもの(レス・プブリカ)」から来ており、「公共主義」と訳すことも可能である。だから、共和主義という概念は、自治のために政治参加を美徳と考えて称揚し、専制を回避するための制度的工夫(混合政体論)を行うことを意味する。
 近代において共和主義が王権否定の思想となったのは、王権や貴族が私的利益を追求して公共善を侵害したから、それを打倒して自己統治(自治)の政治を作ることが公共善の実現につながると考えられたからである。しかし、歴史的には、共和主義は必ずしも王権を全面的に否定したわけではなく、専制的王権には反対しながら王権の存続を認めて議会制の確立と自己統治を主張するような場合も存在した。
 私は、共和主義の歴史的展開を「古典的共和主義(ギリシャ、ローマ)、古代的共和主義、中世的共和主義、近世的共和主義、近代的共和主義」と区分し、近代的共和主義が王権を否定する思想であるのに対し、近代への過渡期において王権の存在のもとで議会政を導入して混合政体を主張した思想を「近世的共和主義」と呼んでいる。日本では、明治以来、共和主義的な思想家でも、中江兆民や植木枝盛も含めて多くの場合、天皇制の存在は容認しつつ議会政[筆者注、原文ママ]や自治の確立を主張してきたから、その多くはこの近世的共和主義のカテゴリーの中に入る。
(中略)
 だから、大きく言えば、横井小楠らにはじまった幕末議会制論が、明治維新後に多くの紆余曲折を経て、議会の開設と政党内閣へとつながっていったことになる。これは、天皇制の存在を前提にしているから、近代的共和主義ではないが、幕府という権力を倒して議会政治への道を開いたという点において、近世的共和主義の系譜をここに見ることができるだろう。明治維新は「近世共和主義革命」と考えることができるのである(pp.188-190)。


 さて、本稿で引用した箇所で小林正弥は、「近世的共和主義」という概念を、まず「近代への過渡期において王権の存在のもとで議会政を導入して混合政体を主張した思想」と定義している。従って、ここでの「近世的共和主義」は思想の問題であって、政体の問題ではないことになる。
 ところが続く箇所では、議会政治の確立をもって明治維新が「近世共和主義革命」と位置づけられている。つまりここで、「近世的共和主義」は思想上の問題から政体の問題へと飛躍しているのである。先の稿で私は、「共和主義者がいれば共和制であるわけではない」と書いたが、これは小林正弥の論理の飛躍を見抜けなかった私の不明による、概念の混同であった。ここでは「共和主義者がいれば共和主義思想が存在したと考えることはできるが、それは必ずしも共和政体の確立に繋がるものではない」と述べるのが正しかった。

 従って、あるいはここで、日本近世における共和主義思想の萌芽が明治維新という政治変動によっては必ずしも成果をあげえず(注1)、むしろ安田浩が近代天皇制を定義したような一種の専制君主制のもとで、機能不全を起したと論ずるならば、理論的には理解できる。もっともこの場合、わざわざ「近世的共和主義」などという区分を創り出す必要はなく、ただ「共和主義」とのみ記述すればよいだろう(注2)。
 だが小林正弥は『サンデルの政治哲学』において、むしろ「日本の『共和主義』は天皇制のもとで展開してきたし、近未来もそうであろう」と述べ、それこそが「近世的共和主義」なのだとしている。
 「展開」とは時に便利な言葉である。確かに一種の共和主義ないしその萌芽とみなせる思想が、近世から近代にかけての日本には存在したかもしれない。だがそれが、安田浩の述べる「究極において君主個人の意思が制度的なものをおさえて国家意思として妥当する統治の形態」たる専制君主制=天皇制のもとでたわめられ、王権の打倒ではなくむしろその構造の中に限定されて部分的な機能しか果たしえなかった(そして現在でも果たしえていない)ことを、「天皇制のもとで展開してきた」と表現し、また「近未来もそうであろう」と予測することは、王権と共和主義思想ないし共和主義者との間にある、不可避の葛藤をあまりに軽視しすぎた、雑駁な把握ではないだろうか。

 小林の述べる日本の「混合政体」とは、言うなれば政治的妥協の産物である。もちろん現実政治において妥協は必然であるが、それゆえそれは思想そのものとは異なるものであるし、また現実を追認して肯定する程度の機能しか果たさないのならば、そもそも思想は不要である。「政治哲学」ないし「公共哲学」を奉ずる小林正弥が、実際の近代史の中で「天皇制のもとで展開」した日本における共和主義思想を、そのまま「近世的共和主義」と名づけることで全肯定することは、思想自体の自殺である。少なくとも『非戦の哲学』で、アフガニスタン戦争への参戦を、憲法を政府自身が踏みにじった「政府クーデター」であり、「立憲主義の自殺」であるとして(p.109)、「このような異常事態を黙認するような憲法学者や法律家は、極言すれば存在の意味が少ない」と述べていた(p.111)人物の言動としては、理論上の整合性を欠いていると言わざるを得ない。

 小林の「近世的共和主義」概念とは、いまだ天皇制の問題を剔抉できずにいる近代日本の思想を最終的に合理化するものである。しかしそのような働きをする思想は、小林自身がかつて述べていたように「存在の意味が少ない」。せいぜいが、時としてサンデルを消費するような中間インテリ層の、ひとつの自己慰安に役立つ程度のものであろう。現実的には、ただ現状維持の(非)行動があれば天皇制は残存し続けるのだから、わざわざそれを理論的に合理化したがる層など、そんな一握りの集団としてしか存在しまい。
 先の稿で述べた、小林正弥が政治的オルタナティヴのメイン・ストリームになりきれない理由は、このようなところにもあるのではないだろうか。



(注1)ところで小林正弥は、坂本龍馬や西郷隆盛など明治維新の「英雄」たちの思想と行動に随分と思い入れがあるようだが、彼らの思想が帝国議会開設につながったものとさえ、果たして言いうるだろうか。思想や文言の都合のよい箇所をつまめばそうした見解も導き出せるかもしれないが、帝国議会の開設は1890年、明治23年のことである。さらに政党内閣の誕生は、小林も記述していることだが、19世紀末となる。はたして四半世紀以上も前の、それも坂本龍馬のように明治政府の確立を見ることなく死亡した人物や、横井のようにやはり維新後まもなく暗殺された人物、また明治政府確立後に権力争いに敗北し下野した西郷隆盛らの発言や活動をもって、それが議会制の確立に「つながって」いると考えることは、思想史的、哲学史的に可能であろうか。
 たとえば自由民権運動ひとつをとってみても、それは幕末期から頻発し、維新後には増加しさえした民衆蜂起(いわゆる「一揆」ないし「打ちこわし」など)や、それに加えて発生した士族反乱などの衰退と入れ替わるように立ち上げられて活性化したものである。また、帝国議会開設には、列強国入りを果たすための政体上の体裁を整える必要が政府側にあったことも見逃せないだろう。
 小林正弥の思想史の記述には、いわゆる中間インテリ層の自称「歴史好き」が思わず注目するような有名人(いわゆる「英雄」)の名前は頻繁に登場するが、社会を様々な要素の複合した動体として立体的に把握する、科学的な視点は決定的に欠けている。このような特徴は、小林がサンデル・ブームを「大衆社会の中の知的なオアシス」と位置づける知的エリーティズムや、その知識を現実的には雑駁にしか活用できない致命的な社会性の無さと無関係ではあるまい。

(注2)思うに、合議制的な側面のある思想をすべて「○○的共和主義」などと名指すから、議論が乱脈で雑駁なものになるのである。
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