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金光翔氏の解雇を許してはならない

 2007年、『インパクション』誌上にて論文「<佐藤優現象>批判」を発表し、近年では『週刊新潮』および佐藤優を相手取っての裁判を進める一方、その佐藤優との野合を継続するばかりか、自社の社員すら守ろうとしない岩波書店および同社労働組合の姿勢をも厳しく批判してきた金光翔氏に対し、先日組合側から除名処分がなされ、同時に会社側からはユニオンショップ制をタテにとった解雇通告が出されたという。
 既にウェブ上では先週から幾人かの方々が報じているが、金氏本人からの公式的な告知(ないし訂正)がないところを見ると、おそらく真実であり、氏自身はアナウンスを行う余裕すらないのではないかと思われる。
 金光翔氏は既に岩波書店労働組合からの脱退を表明し、首都圏労働組合に所属していたのだが、これまで会社側も岩波労組側も、ともにこれを承認してこなかった。この時点で二者は、金氏の加入する組合の選択権や、他組合の労働三権を認めないという驚くべき対応を行っていたのである。

 労働組合が分裂を防ごうとするのは、運動体としての自律性と闘争性が保たれ、企業側との間に癒着や馴れ合いがなく、もって労働者の権利を庇護しているときにのみ擁護されるものであろう。そしてその場合でも、最終的には脱退や加入の権利は個々人の側にある。
 まして金氏の報ずるところによれば、岩波労組は時間外労働などについても会社と組合との「信義」に基づいて成り立ってきたと述べている。これが確かならば(金氏は組合文書を引用しているので限りなく真実だろうが)岩波労組は御用組合ですらなく、既にQCサークルのようなものである(注1)。彼らは会社にとっての、いわゆる“生産性阻害要因”を排除するのには何の抵抗感も持っておらず、さらに金氏の批判がまさに正鵠を貫いているがゆえに、労働組合が労働者の権利を踏みにじり、企業と結託して不当労働行為を促すという不潔な行いに出たのであろう。

 今回の除名および解雇措置も、企業と岩波労組双方にとって都合の悪い社員を非合法的に(繰り返すが金氏は首都圏労働組合の組合員である。従って岩波書店と岩波労組のユニオンショップ制による拘束は受けない)葬り去らんとする卑劣な行為であり、普段からの労使の癒着がなければ不可能な連携プレーである。あるいは金氏が『週刊新潮』と佐藤優とを相手取った地裁での裁判で訴えを棄却された後も怯まず言論活動を続け、岩波書店ならびに同社労組への批判の手も緩めていないことが気に食わず、この時期ならば金氏が、負担が増えるのを得策とせず泣き寝入りするのではないかという薄汚い思惑を抱いてのことではないかと私には思える。なぜならば、そのような思惑でもない限り、わざわざ都内の区議会選挙とメーデーとの準備が重なるこの時期に、さらに労組側の仕事が増えるような真似をしてくるとは考えられないからだ。

 金氏が今後どのように判断を行うかは氏自身の考えによるほかないものであり、私の方でどうすべきか示唆を行うつもりはない。だが、岩波書店および同社労組の行った今回の措置、そしてこれまでの行為について、私は決して忘れないし、金輪際許すつもりもない。岩波書店経営者と同社労働組合幹部とは、言論上は人権の尊重を訴えながら、自らの足下では堂々と不当労働行為を働く下劣な輩であることを自ら証明したのであり、同情や配慮の余地は一切ない。

 ところで、岩波書店および同社労組がここまで腐敗している以上、あるいは金氏は、これを機会に同社に見切りをつけ、自主的に独立独歩の言論人としての道を行ったほうが良いのではないかと考える人もいるかもしれない。
 しかし、企業が労組と結託して、一人の従業員に対して不当労働行為を働いている現在、そのような見解は結局のところ、状況の合理化をもたらすものであり、金氏以外の他者の言動としては十分に慎まれるべきである。金氏の進退については金氏自体が決めるべきことであり、いかなる外的干渉によっても不当に条件が設けられてはならない。
 さらに言うならば、金氏を一個の知識人としてのみ捉えることは、金氏自身が同時に岩波書店に勤務する社員でもあり、だからこそ労働問題が生じているという側面を見逃していることにも注意を払うべきである。
 知識人であると同時に労働者でもあるということには、あるいは違和感を覚える人もいるかもしれない。だが、これは現在も進行する、知識人と労働者をめぐる不可逆的な変化の一環であり、そのことを認識した上で、議論がなされねばなるまい。

 20世紀を通した商業メディアの急速な発展は、企業の枠組みという一定の制限の中で、労働者として知的生産に関わる人々を大量に生み出してきた。また、メディア技術の発展がもたらす基礎教養へのアクセスの機会の充実は、労働者全般を必ずしも知から隔てられた存在とはしておかなくなった。
 知へのアクセスの機会の増加は、知の質や価値の低下を意味するわけではない。むしろ、その受容者の拡大は、知の構造自体を洗練させていく機能を果たす。今や、20世紀初頭のブルジョワジーの文化を異化せんとしたモダニズムや、さらにそれを挑発したポスト・モダニズムの洗礼を受けていない商業文化など、はたしてあるものだろうか?
 もちろんそれらに、かつて有されていたような批判的機能が未だ備わっているとは言い難い。しかしながら、それがいかに形骸化したスノビズムであろうとも、ある種の知的なレトリックを用いることは、現代社会において、身につけて当たり前のスキルとなってしまった。我々は、どのような形で教育を受けようと、そのような技術を一定程度マスターしなければ、リスペクタビリティを得ること自体がかなわない。
 従って、アカデミズムの徒弟制度によらずして、そのような知の系譜を媒介する知的生産者は、たとえそれが一種の労働者であっても、むしろひとまずは、一定の社会的敬意を払われる存在となった。たとえば記者や映画人に関する認識は、見下すべき“河原者”ではなくなった。今や、大学を卒業した人間が新聞社や出版社、映画会社やテレビ局などに就職することを、恥ずべきことだと考える者など、いはしないだろう。
 多くの場合、企業と雇用契約を交わした労働者であると同時に知的なものの生産者でもあり、しかしかつてのように数量的に選別され特権化されたアカデミズムの知識人とも異なる立場にある(注2)これらの人々を、仮に知的中間層として位置づけよう。

 ところがこの層は現在、さらなるメディア技術の進展によって、その特権性を剥奪され、没落せんとする危機を迎えている。文章、絵画、映像、音楽などの各種の表現は、今やインターネットにさえアクセス可能であるならば、ワールドワイドに発信できるようになっている。皆が労働者でありながら表現者であり、また知識人でもありうるという状況への変化は、既に始まっている(注3)。この変化はおそらく不可逆的なもので、半世紀先にはこのような知的中間層なる集団は、既に解体されてしまっているかもしれない。
 しかしある階層が没落へ向かうとき、それが甘んじて受け入れられるということは、まずありえない。没落しようとする集団は、自らの拠ってたつ基盤を護持しようと足掻き、立ち居地をさまざまに変化させながら生き残りを図ろうとする。実のところ、おそらくはこうした足掻きこそが最も自らの足下を激しく崩落させていく地団太のようなものであることを知覚することもできずに。
 金氏の言論活動は、ひとつには、この知的中間層(それはおそらく金氏自身や、あるいは私をも含む層である)が、いったい何処を向き、何のために語るのかということを鋭く問い直してきたものである(注4)。自らのエリート性は誇示するが、言動には責任を取らずに野合を進め、そうして己の属する集団の利権擁護のためにのみ語る者の言葉に、一体誰が耳を傾けるのだろうか、と。

 金氏が岩波書店から独立して独自の活動を行えばよいとする議論は、金氏の労働者としての側面を捉えられていない。金氏の一個人としての言論活動の自由と、岩波書店における労働者としての権利とは、同時に擁護されねばならない。そもそも、本来この二つは、金氏という一人の人間の中で不可分なものだからである。
 もちろん私は金氏の行動を支持する。その言論においても、労働者としての生活においても。そして、この二つを引き裂き、もって金氏の人格そのものを破壊し踏みにじろうとする岩波書店および同社労働組合の行いを弾劾するものである。



(注1)岩波労組は、金氏が組合の壁新聞を公的な場で引用することにも批判を行ってきたようだ。ここにも同労組が運動体としての公的な意義を見失い、企業内での組合員の不満の調整弁としての機能に汲々としている態度が見受けられる。

(注2)現代におけるアカデミシャンは、これとは少し異なる階層になっているように思われる。というのも、既に大衆メディアに接して生活していない大学教員や大学生など、ごくごく例外的な少数派だろうからである。一定程度、同じ文化を共有している以上、こうしたアカデミシャンが、かつてのそれと同様であり続けていられるとは思えない。たとえ「大衆社会状況」それ自体を嘆くような権威主義的知識人であっても、アニメ番組の比喩を用いてしまうのは、典型的な事例である。

(注3)ただしこの技術上の変動は、知にまつわる既存の構造を解体し変貌させるものではあっても、人間存在の全的な解放を保証するものではない。その意味で、インターネット技術の進歩が新たな社会運動や「連帯」の可能性を築くというような議論は、そのこと自体に自覚的でもない限り、他の社会的要因の把握や、その積極的構築の視点を放棄した、無責任で無軌道な楽観主義でしかない。

(注4)なお、金氏の言論活動には今ひとつ、そしてより重要な要素として日本社会における在日挑戦人への民族差別の問題がある。これこそが、金氏の「何処を向き、何のために語るのか」を支える要諦であろう。今後、この二者を総合化し、立体的に理論化して受け止める必要が、金氏の読者である我々にはある。
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