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ある「友愛革命」論者の政治哲学から―小林正弥・著『友愛革命は可能か 公共哲学から考える』をめぐって(2)

 ここで、しばらく議論を迂回させることを許されたい。小林氏の顕著なスピリチュアリズムへの傾倒の意味を、いま少し深く考えてみたいからである。
 氏の上記のような議論は、おそらく少なからぬ読者をして、「神がかり」的なものを感じさせ、また首を傾げさせるのではないかと思う。しかし「神がかり」的であるという批判は、一般読者個々人がそれを受け入れない論拠としては充分なものだが、公的な批判の言論としては不備なところが残る。なぜならば小林氏本人を前にして「あなたは神がかっている」と批判したところで、氏は「その通り。だから良いのである」と応答して、小揺るぎもしないだろうからである。科学的思考の限界性を訴え、感性の世界へと移行するとは、そういうことである。

 ところで、ニューエイジについては、カトリックの総本山である教皇庁の、文化評議会および諸宗教対話評議会が公式の見解を発表している。これは日本でも『ニューエイジについてのキリスト教的考察』(カトリック中央協議会、2007年)という書籍で読むことができる(注5)。
 私はキリスト者ではないのだが、本書で示されている、ニューエイジに傾倒する人々の「飢餓感」を認めつつも、それがニューエイジによってはついに満たされないものであることを訴える論理展開には、かなりの説得力を覚えた(注6)。以下、ニューエイジ的な反科学主義と不可知論に対して、客観的かつ説得的な批判を展開している部分を中心に示しつつ、適宜コメントを付していく。

・非理性主義とエリート支配について
「ある研究者によれば、ガイア仮説は「個人主義と集団主義の奇妙な総合です。ニューエイジは、人間を断片的な政治から引き離すや否や、ただちにその人間をグローバルな精神の大鍋に投げ込まずにはいられないかのようです」。グローバルな精神は、統治のための政治体制、いいかえると世界政府を必要とします。「現代の諸問題を解決するために、ニューエイジは、プラトンが『国家』で述べるような、秘密結社によって指導される霊的な貴族政治を思い描いています」 。これはいいすぎかもしれませんが、多くの証拠は、グノーシス主義的なエリート思想とグローバルな統治が、国際政治の多くの問題において符合することを示しています」(53~54頁)
「ニューエイジは、理性を冷たく打算的で非人間的なものとして非難することによって、多くの人の心をとらえてきました。これは、人間のさまざまな能力が釣り合いのとれたものでなければならないことを主張する点では、的を射ています。だからといって、完全な意味での人間の生活にとって不可欠な能力を遠ざけてよいことにはなりません。合理性は普遍的であるという利点をもっています。理性はだれもが自由に用いることができるものです。それが、秘儀的かつ魅惑的な性格をもつ、エソテリックな、ないしグノーシス的な「神秘的」宗教との大きな違いです」(101頁)

 ここで言われている「グノーシス主義」とは、同書で「知性的でなく、幻視的・神秘的な知識の形態。啓示を必要とし、人間を神の神秘と結びつけるとされる」と定義されている(120頁)。こうした秘教主義(同書ではいま少し広い意味で「エゾテリスム」と表記されている)は、当然ながらそのドグマを伝授する、極めて強権的な教導者を必要とする。ニューエイジ的な団体がそのような性格をもつ閉鎖的カルト集団となりやすいことについては、概ね異論のないところだろう。同様に、小林氏のように超国家的な主権の創造をも訴える社会運動が、不可知論や反科学・非理性主義を基盤に持つことは、実際にその組織内で既に指導的立場にある人間(ベテランの学者はそうなりやすい)の裁量で、運動(ないしは仮に「世界政府」が樹立されたならば、その政策)の方針そのものが左右される危険性を示唆している(注9)。
 それにしても、どうやら伝統的宗教者の方が、現代の「友愛」政治学者よりも、よほど「理性的」であるらしい。繰返し強調するが、「友愛」の最終的な定義を拒み、情動と感性の方向へと運動の舵を取ることは、紛れもなく運動原理の秘教化をもたらすものである。それは端的にいって民主的ではない。
 このようなことを書いていると、中には小林氏がかつての左翼と同じ轍を踏んでいるので良くない、と考える人もいるかもしれない。しかし私はそうは考えていない。むしろ小林氏の議論はどんな教条的左翼よりも、より一層危険なものである。
 歴史的な事実として、マルクス主義の「正統な」解釈が特定の権力によって占有され、それによって各種の団体や個人が振り回される悲惨な結果に陥ったことは認めねばなるまい。しかし、少なくともマルクス主義のような理論は、いかに「金科玉条」化しようと、公開された原理をその基盤に置いている以上、同一の理論による批判を示すことが可能である。これはちょうど、いかに歴史的にキリスト教が異教および有色人種を弾圧する論拠を提供してきたとしても、その内在的論理の展開において、それを批判し超克していく解釈が導き出される余地があったことと同じである。
 しかし、定義によらない情動的な「友愛」論は、そうはいかない。たとえば小林氏は、鳩山家の「友愛」は未だ上層としてのイメージが強く、また鳩山家の資産が桁外れであるため、そのままでは貧困問題に悩む人々を失望させるだろうと予測する。従って彼は、鳩山由紀夫が「弱者・少数者のための友愛」を唱えたことを高く評価し、そうした「友愛」を実現すれば「鳩山家の資産がどうであれ、多くの人びとはその政治を喜び、「友愛」を自らのものとして感じることができるだろう」と述べている(注9)。しかし別段、仮に鳩山がこれを口約束だけのものとして実質的には反故にし、かつての支援者たちを切り捨てたとしても、それは鳩山の「友愛」観が、小林氏の無軌道な認識に収まらなかっただけである。それは小林氏が蒙昧であったことしか意味しない。鳩山は一般の有権者に対して不誠実であっても、小林氏に対して不誠実であることにはならない。むしろ小林氏が読者(および運動の参加者)に対して不誠実なのである。しかし鳩山と小林氏が今後すれ違いを見せたとして、小林氏がそれでも鳩山にすりより続けていった時(確実にそうなるだろうが)、小林氏の協力者には既に、「友愛」を楯にしてその不誠実さを非難する余地が残されていない。「友愛」とは何のためにある、いかなるものかという、しっかりと公開された定義が存在しないため、小林氏がその時々で意義・文脈を変化させれば、むしろ批判者の方が「友愛」の敵ということになるだろう(注10)。

・内面の変革から社会変革へと至る議論について(1)
「問題は、思考の変化と現実の変化は比例するかどうか、また、内面の変容が外的世界に与える影響がどの程度証明できるかということです。それが証明できないといわないまでも、次のような言明を含む場合に、この理論がどの程度科学的かを問わずにはいられません。「自律した人間の社会では、戦争が起こるとは考えられません。自律した人間は、すべての人類が結びついていることを見いだしており、異なる思想、異なる文化を恐れず、また、あらゆる革命は内面から始まり、自分の覚醒のしるしをだれに押しつけることもできないことをしっているからです」(注11)。あることを考えることができないという事実から、あることが起こりえないと結論づけるのは、非論理的です。このような推論は真の意味でグノーシス主義的といえます。それは知識と意識を過大視するからです。こういうからといって、科学的発見において意識の発展がもつ根本的かつ中心的な役割を否定したいわけではありません。ただ、まだ心の中に存在するにすぎないことを外的現実に投影することに対して注意を促したいのです」(55頁)

 カトリックの、非常に事実実証的な考え方に驚かされる。おそらく「秘教的」でない宗教の伝道者は、本来このように論理的に人を説得する術を持つべきなのであり、この起草者たちはそれを実践しているのだろう。しかし、文中で引用されているニューエイジ論者の言説が、まるで小林氏の議論の要約のようであることが空恐ろしくもある。この傾向は以下、さらに顕著となっていくだろう。

・内面の変革から社会変革へと至る議論について(2)
「多くのニューエイジの著作は、人は世界を変えるために(直接には)何も出来ないが、自分を変えるためには何でもできると述べています。個人の意識を変えることは世界を変えるための(間接的な)方法だと考えられるのです。社会を変えるためのもっとも重要な手段は、個人の模範です。世界中の人がこうした個人の模範を認めることによって、集合的精神の変革が起こります。そして、こうした変革こそ、現代においてわたしたちが達成した主要な成果だとされます。(中略)人は内面を見つめることによって、世界を「知る」だけでなく、世界を「変える」のです。しかし、内面を見つめれば見つめるほど、政治的領域は狭まっていきます。これは、人々が新しい地球秩序に民主的な形で参加していくことをうまく言い表したものなのでしょうか。それとも、それは無意識的かつ巧妙な形で人々を無力化し、操作されやすい存在にしているのでしょうか」(56-57頁)

 煩雑になるが、小林氏の『友愛革命は可能か』のあとがきから、この指摘に該当する箇所(251頁)を続けて引用しよう。

「この本の表題は「友愛革命は可能か」とした。私自身の答えは、「それは私たち一人ひとりの努力によって可能である」というものであり、私としてはそれが実現することを願い、そのために学者として微力を尽くしたいと思っている。そして、友愛革命とは、単に日本の政治的構造転換だけを意味するのではなく、まずは一人ひとりの心の内における「愛の革命」から始まって、全世界に及ぶ「愛の政治経済」の実現へと発展すべきものである

 『ニューエイジについてのキリスト教的考察』の著者たちは、ニューエイジが現代社会に生きる人々の精神的飢餓感によって求められていることを率直に認めている。しかし同時にそれが、内面の問題へと秘教化されることで政治的認識を狭め、かえって社会変革の主体となることを諦念させる機能を持つだろうと述べている。ニューエイジの思想とそれがもたらす結果は、いわばマッチポンプの関係にある。小林氏が訴える一人ひとりの「愛の革命」は、おそらく決して全世界的な「愛の政治経済」には結実しない(しても困るが)。具体的で地道なプログラムを欠いているのだから当たり前だが、しないからこそこのような情動的な言説は、永遠に価値を失わないとも言える。ちょうど極右の求める世界観が決して実現し得ない非現実的なものであるがゆえに、常に彼らが攻撃性を失わずにいられるのと同じである。
 また、近年、日本のサブカルチャー論者たちは、個人と世界の運命とが無媒介に連続している物語を「セカイ系」などと名づけて、肯定的であるにせよ批判的であるにせよ、なにやら新しい試みが出てきたものとして議論を交わしているようだが、なんのことはない、これは既に70年代以来実践されてきたニューエイジ思想の文化的一典型例である。一部のJポップや漫画、アニメ、青少年向けジュブナイル小説、ゲームなどに宗教的な表象が多々見られることは、ニューエイジと消費文化の極めて密接な関係を示唆している。ニューエイジが強調する精神的飢餓は、ニューエイジ的文化商品の消費によって癒されるように見えるがゆえに、それを生み出す文化産業にとって都合がよいものである。またニューエイジ思想は消費文化の形態をとることで、その歴史上かつてないほどの爆発的な浸透力を利用して、世俗社会に対する影響力を行使できるのである(注12)。これに対しては、以下のような教皇庁の批判が適切であろう。

「彼らはまた、個人主義への傾向と、すべてのものを消費の対象としてみる傾向に簡単に屈服します。(中略)神秘的な合一への夢想は、実際には、単なる仮想的な合一に終わるように思われます。仮想的な合一は、結局のところ、人々にいっそう孤独と不満を感じさせるだけです。」(70頁)。

 小林氏は『友愛革命は可能か』および『非戦の哲学』において、現代消費文化による比喩を幾度も使っている(注13)。おそらく一般書であることを意識したものなのだろうが、坂本龍一やウルトラマン、また、大河ドラマの直江兼続や坂本龍馬のような喩えを持ち出すことは、議論の雑駁さに拍車をかけているだけではなく、彼の議論が今後向かう帰趨を暗示しているように思われる。おそらく彼は、前述したような現代消費文化における宗教的表象の氾濫を寿ぎ、日本が「愛の革命」へと既に向かいつつあったのだとするような議論を展開するのではないだろうか。もっとも私は、小林氏の議論を全て抑えているわけではないので、このような論説自体が2010年4月現在、既に書かれている可能性もある。



(注5)ISBNのついた一般書籍であるため、品切れでもなければ、誰でも購入することが可能である。
(注6)もちろん本書の議論は、最終的にはニューエイジに傾倒することなくキリスト教徒としての節を全うするよう訴えるためのものではある。そのため、「魔女」やシャーマニズム、自然崇拝など、キリスト教会が過去に弾圧し、また悪しきものとして取り込んだ異教・異端の信仰の再評価に対しても、些か冷淡な態度を示す部分には肯んじ得ないものもある。
(注7)原注:Michel Lacroix, L’Ideologia della New Age, Millano(il Saggiatore)1998, p.84f.
(注8)小林氏は『非戦の哲学』で、かつての左翼的諸運動が、「文化的な愛や潤い」に欠け、上意下達の官僚的機構であり、また暴力的であるがゆえに失敗したと総括している(198-199頁)。また『友愛革命は可能か』でも近代革命および共産主義・社会主義革命が暴力的手段を伴っていたことを問題視し、日本共産党などが議会主義を採用したにもかかわらず、新左翼の内ゲバなどにそれが極端に表れ出たのだと述べている(163頁)。しかし彼の情動的かつ無軌道な反権威主義は日本の新左翼崩れのそれに極めて近い。また、学生運動経験者が後々述懐しているように、新左翼の運動は確かに組織的統制を嫌った。しかしこのことは、それゆえ逆に、偶さか組織内でヘゲモニーを握った人間が非公式の権力を振るう温床となった。しばしば左翼の暴力革命と集団主義の末路として語られる「連合赤軍事件」などは、むしろ明確な組織的展望が不在ゆえの迷走として捉えられるべきである。このような蒙昧主義は現在、今のところ殺人こそおきないものの、市民運動内での一部指導者の専横という事例に顕著に見られるようになっている。
(注9)『友愛革命は可能か』193-195頁。それにしても、最後の一文はまずあり得ないのではないだろうか。論旨上は削ってもよい文だったのだが、あまりにも凄まじい認識だったので、思わず引用してしまった。
(注10)逆に小林氏のお墨付きさえあれば、外国人労働者の排除は「国民的友愛」として、女性差別は「ブラザーフッド」として肯定しうることになる。
(注11)原注:Marilyn Ferguson, The Aquarian Conspiracy. Personal and Social Transformation in our Time, Los Angels(Tarcher)1980, p.411.
(注12)おそらく消費社会の到来以降においては、超越的な権力の持続の如何は、こうした消費文化と概ね友好的な関係を築けるか否かにかかっているだろう。たとえば既に大衆メディアへの露出自体を厭わなくなって久しい天皇制は、逆にその強度を増したと考えるべきである。宮内庁が時折、報道の「行き過ぎ」や、ウェブ上での「ネタ」的な消費のされ方に難色ないしは困惑を示すことはあっても、それは消費されること自体への批判ではない。また天皇制にまつわるイコンの消費は、権力の意味をズラして相対化し、その権威を貶めるラディカルな実践であるよりは、むしろ消費を通した支持と親愛の情の表明ですらある。
(注13)ただし、小林氏は小林氏なりに、市場原理に基づく経済的淘汰を批判してはいる。これもなかなか特徴的な議論なので、軽く説明しておく。彼は市場原理に任せきると、「精神的には非常に有意義な商品」やそれを作る会社が淘汰され、「逆に精神的には堕落を招くような商品が大いに売れてそのような商品を作る会社が繁栄したりする」と述べている。「精神的には非常に有意義な商品」や「堕落を招くような商品」とは、具体的に何をさしているのか全く不明なのだが、これもたとえば、情動的・没論理的なタイプの消費者運動には受けのよい議論かもしれない。自分の定義を各々が勝手に当てはめつつ読めばよいのだから。
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