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他国の社会(だけ)を問う人びと

 故あって岩波書店の「シリーズ戦後日本社会の歴史」のうち第3巻、『社会を問う人びと 運動のなかの個と共同性』を読む機会を得た。率直に言って、内容以前に各論の質のバラつき――新説を実証しようとしているものから、これまでの一般論をまとめたものまでが混在している――は、個々の執筆者を云々するよりも、まず出版社がどれだけの編集期間をこの論集に費やしたのか疑わざるを得ないものであった。
 読んでいてズルズルと力が抜けていくような感覚を味わったのは、たとえば井関正久によるドイツを事例にした「1968年」論であった。東ドイツのシュタージの「新資料」とやらが発掘されてきているので今のところ全体像が描けない、という留保は、歴史家にありがちな史料(偏重)主義が、68年というジャーナリスティックなテーマ設定と齟齬をきたしているようにしか読めなかった(注1)。

 だが巻末の論文は、それ以上に、思想的にもあまりに酷いものだったので、ここに書き留めておくことにする。北海道大学准教授・水溜真由美の「アジアの女たちの会とその周辺 国際連帯の観点から」という論文である。ここで提示された議論の枠組みは、現在の日本において批判的社会運動を論じる者(実践者=活動家であれ、非実践者=たとえば学者やジャーナリストであれ)のロジックを、かなりの程度象徴しているものだ。
 この論文は、松井やよりらの活動の拠点となった「アジアの女たちの会」を取り上げたものである。
 一般的に、「アジア」を掲げた批判的社会運動というのは、日本の過去のアジアへの軍事的侵略と現代の経済的進出や軍事同盟を連続性のもとに捉える自省的なロジックを根底に持っていたはずである。このこと自体は実は水溜も前提にしている。
 にもかかわらず、この論文では、「アジアの女たちの会」の活動を通してみた「当時のアジアにおける日本の位置」について、以下のような発言が飛び出すのである。「独裁政権で固められていた当時のアジアにおいて言論の自由が保障されていたのは、香港を除けば日本のみだった」
 この無自覚な優越意識はなんなのだろうかと首を傾げざるを得ない。あたかも戦後日本の「民主主義」が他のアジア諸国の政治状況と無関係に成立していたかのような多幸感に満ち満ちている。このロジックに従えば、およそ日本人が行う国際的な社会運動というものは、「民主主義国」の「独裁国」に対する政治的アドバンテージによって可能になるもの、一種の「ノブレス・オブリージュ」のようになってしまう。そこに自国の政治を批判的に捉える自省性は全く消失してしまっている。

 こうして「戦後民主主義」が戦後日本政治の現実への批判的・対抗的な概念ではなく、むしろ政治的メインストリームの実態として再整理されることにより、日本国は他のアジア諸国に対する長期にわたる政治的な優越性をアプリオリなものとして手に入れることができる。この移行には、それ自体が大きな歴史認識上の錯誤であるということ以上に、大変重要な意味がある。他国に対する思想的・政体的優越性という認識は、即ち日本国の他国への指導的立場をも承認することに繋がるからである。
 歴史的な事実の陳述として、戦後日本社会が(危ういながらも)保持してきた「言論の自由」について一定の評価を与えつつ、その意義と実質を(限界を含め)論ずるというならば、まだ理解はできる(注2)。だが、社会運動のモデルとして、それを他国へ敷衍すべき政治的アドバンテージと捉えるのは、自省を欠いた、ただの傲慢というものであろう。というのも、ジャン・ブリクモンが指摘するように、「言論の自由を備えた自由な国であるという事実は、一般に考えられているほど大して良い方向には働いていない。というのは『自由な』報道は呆れるほど同質であり、自由であることそれ自体がプロパガンダの道具として有効性を高めているからだ」(注3)
 この立場は何よりも、たとえば清国やロシアの圧迫から朝鮮を救うと称した大日本帝国の過去の歴史――最終的に大東亜共栄圏の思想へと繋がるそれ――を批判しえないという時点で既に歴史認識・思想上の大きな本末転倒を犯しているのだが、それ以上に現代における「人道主義的介入」、「空爆する自由民主主義」と親和的であるという犯罪性をも伴っている。自国の「言論の自由」は、他の「独裁国家」の政体や、さらにはその国の反体制運動に対するアドバンテージであり、彼らの国にもそれを広める活動は高く評価されるべきだ、という議論は、現実的には「独裁国家」に対して自国が行う経済的・軍事的抑圧に、思想的なそれを加えて、口当たりのよい自己弁護の理屈を生産する効果しかない(注4)。
 この立場からしてみれば、たとえば韓国や中国の反日デモの「暴力性」に対して「冷静に」その「イデオロギー的偏向」を説いて見せるような態度も、朝鮮やシリアの「独裁」に反対してその政権を倒すように訴える議論も、「民主主義国」としての優越感とは何ら矛盾しないどころか、むしろ素直に接続されるのである。

 水溜論文は最後に、「アジアがかつてよりも平等で平和の地域になったわけではない」から「こうした問題を解決する上でグローバルな社会連帯の意義は一層大きくなっている」として「対等で自立した個人同士の関係」を「連帯の基礎」に挙げているのだが、自分が所属している国家の政治的な配置を考えないのが「自立した個人」なのであろうか。それは現実政治で自分の言論がどのように作用するかも考えず「独裁反対」を主張する、人道主義的介入賛成型のリベラルや左翼崩れが唱える俗論と大差ない。これが思想史研究者の仕事であろうか。
 私には「アジアの女たちの会」の活動を実証的に再検証するような知識は無いが、この水溜論文には批判的社会運動の思想的な評価を、まったく別の、というよりも相反する別の路線へと転換させる一つの典型的なロジックが示されていると思う。



(注1)そもそも「新資料」への言及自体がセンセーショナリスティックで、筆者が問題の「詳細な再検討」を求めている割に、むしろ「秘密警察」などといういかにも「歴史好き」が好みそうなトピックの資料(これについての史料批判の言及が無いことには驚かされたが)の存在に振り回されているように思える。
(注2)もちろん天皇制をはじめとして、いくつものトピックで例外があることは言うまでもない。
(注3)『人道的帝国主義』新評論、2011年、p.119。
(注4)このように見たとき、水溜が日本とともに「言論の自由が保障」されていたとしてあげているのが、当時イギリスの植民地であった香港であることは興味深い。内政上「言論の自由が保障」されているということが、国際的な政治上のアドバンテージになるという、典型的な論理の飛躍が起こっている。
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