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ある「友愛革命」論者の政治哲学から―小林正弥・著『友愛革命は可能か 公共哲学から考える』をめぐって(3)

 引き続き、教皇庁の見解を引きながら、小林氏の議論を確認していく。

・「多様性」と「統一」をめぐって
「ところで、重要なのは、ニューエイジが、ほとんど世界中で「多様性」が重視されることを特徴とする時代に大きな成功を収めたことです」(62頁)
「あるグループの人たちは、ニューエイジに対して、ニューエイジは陰謀だという非難を行いました。これに対して普通、次のようなこたえが返されます。わたしたちが目の当たりにしているのは、自発的な文化変動であって、その成り行きは、大部分において、人間の手の及ぶ範囲を超えたさまざまの力の影響によって決まると。しかしながら、次のことも強調しておくべきです。ニューエイジは、個別的な諸宗教の座を奪う、ないしそれらを乗り越えるという目標を、多くの影響力のある国際的な組織と共有しています。それは、人類を統一することのできる普遍宗教のために場所を空けるためです。これと密接に関連しているのは、多くの組織によってきわめて協調的に行われている、地球的倫理(グローバル・エシック)を造り出そうとする運動です」(64-65頁)
「彼らは歴史的諸宗教からただエソテリックな核だけを取り出そうとします。彼らはこの核の守護者であると自負しているからです。ある意味で彼らは歴史を否定します。そして、スピリチュアリティが時間の中に根ざしうることも、制度の中に根ざしうることも認めないのです」(68頁)
真の諸宗教対話は、最初からつねに宗教の多様性を尊重はしても、宗教の違いをあいまいにして、あらゆる宗教的伝統を融合させることを求めたりしません(106頁)

 もし私がこれらの文を小林氏の著書と無関係に読んでいたら、この部分は単なる陰謀論として片付けていたかもしれない。しかし、小林氏のように具体的な運動団体に深く関与している人物の、以下のような言動を見た後では、彼らの恐怖にも合理性があると言わざるを得ない。

「文明間の宗教的・政治的対立の問題を克服することも、やはり今後の世界のために非常に大事である。そのために、私は「グローバル・スピリチュアリティー(地球的霊性・精神性)」という考え方を提案している。さまざまな宗教や倫理・道徳の根底に、共通の地球的なスピリチュアリティーが存在し、多様な宗教は一つの実在の顕現形態だと思うのである。これは、ユニテリアニズムやキリスト教神学における多元的宗教論(ジョン・ヒック)と共通性が大きい考え方であり、インド哲学をはじめとする東洋思想ではむしろ主流に近い思想である。
 地球的友愛の理念は、このような精神的原理ないし哲学的世界観に基礎づけられる。地球的友愛公共哲学は、地球的なスピリチュアリティーという哲学的な考え方によって、さらに確固たるものとなることができるのである。
 地球的友愛公共哲学が地球全体で共有されれば、宗教的・国家的・民族的対立を克服して、地球という惑星が愛のもとで一つになることができるだろう。恒久平和を達成することができるだろう。地球が友愛の惑星となり、政治的には地球連邦が実現して、地球規模で友愛政治経済が成立していくことだろう。これが、「地球的友愛世界」のビジョンである
(注14)。

 小林氏は『友愛革命は可能か』において、第4章をまるごと、賀川豊彦のユニテリアリズムに基づくキリスト者としての活動の説明に割いている(注15)。もちろん、本来西洋社会に基盤をもつキリスト教の信仰が別の場所で根ざすためには、ある種の変形が必然である。近世アジアにおけるキリスト教の土着化は、やがて独自の様式を生んで、後々再到来した西洋の布教者たちを、時おり戸惑わせた。特に、キリスト教弾圧の歴史を持つ日本においては、開国以降しばらくして、西洋諸国との関係から基本的には信仰が解禁されたとはいえ、それでもなお国家神道との緊張関係を常に生きねばならなかったキリスト者の思想が、カトリックから見て異端であるからといって、それ自体を責めるには当たらない。
 問題はそれを現在、小林氏がいかに利用しようとしているかである。教皇庁の文書が注意を促しているように、小林氏は賀川のユニテリアリズムを引き合いに出すことによって、むしろ非歴史的な普遍宗教を導き出そうとしている。しかし「多様性の尊重」とは、教皇庁が述べている通り、あいまいな折衷主義ではない。

「真の愛が存在するためには、自分と異なる他者がいなければなりません。真のキリスト信者は、愛が与えられることを受け入れることも拒むこともできる他者の能力と自由の内に一致を求めます。キリスト教において、合一とは交わりであり、一致とは共同性です」(93頁)。

 これはキリスト教の布教史を思い起こせば、なにやら口当たりの良すぎる言明であるが、一般的な議論としては参考になる。
 小林氏による諸アイデンティティの折衷的な「友愛」観は、コミュニタリアンを名乗る彼がそう呼ばれることを好まないであろうにもかかわらず、現代日本の「リベラル」の病理をほぼ共有したものだと言える。試みに、宗教的確信を民族主義やナショナリズムといった概念に置き換えてみるといい。たちまち、外国人の民族的アイデンティティや祖国への帰属意識を、偏狭で時代遅れのものとみなすリベラル派の議論にたどり着くだろう。これは彼が別の場所では階級闘争を完全に否定していることとも相似をなしている。要するに小林氏は歴史的・制度的な文脈のもとに存在する各種の対立軸を意図的に無視し、あいまいな融合を訴えかけていることになる。それは実質的な多数派支配が、より強力に継続することを意味するだろう。これが小林氏の「友愛」の核心である。

 さて、ここまで長々と、カトリックによるニューエイジ批判と小林氏の議論を対位法的に見てきた。それでは何故、小林氏はここまでスピリチュアリズムに傾倒したのだろうか。端的に言うならば、それは彼のマルクス主義および唯物論の否定に根ざしていると思われる。別段本人がマルクス主義者でなくとも、その成果を完全に否定してしまえば、たちまち変革のための論理が削減されてしまわざるを得ない。既に小林氏が、「大きな物語」の否定を批判しつつ、その批判対象と同じロジックでマルクス主義を否定していることは述べたが、それだけに氏にとっては変革のための「大きな物語」を代補するものを探すことが最重要の課題となったのだろう。
 しかしながら、近代以降の日本人にとって最も「大きな物語」は、天皇制であった。小林氏は天皇制については廃止の立場をとっていない。氏によれば共和主義は「専制を回避するための制度的工夫」なので、専制的王権でさえなければ王制との共存は可能だということになる(注16)。ならば戦後の象徴天皇制を「大きな物語」として利用しようとする一昔前の宮台真司のような立場が論理内在的にはもっともストレートな回答のように思えるのだが、小林氏はかつて宮台を批判する著作に執筆を行っていたので(注17)、そうも行かないのだろう。
 ゆえに別の理念が必要になる。それが「友愛」というわけである(注18)。しかしその霊感源となっているクーデンホーフ=カレルギーやエーリッヒ・フロムなどの「友愛」ないしは「愛」の定義は、当然ながら西洋人としてキリスト教の影響下にある。これに対し、日本ではキリスト教はメインストリームの「物語」たりえていないので、直接に導入することは困難である。ユニテリアンである賀川豊彦の存在は、ある程度は利便性があるが、その賀川もあくまで歴史性に根ざした人物なので(注19)、小林氏の希求する「超越性」は、ユニテリアニズムからさらに非歴史性へと踏み出した、消費社会に瀰漫するニューエイジ思想で代補されざるをえないのである。これが、複数の思想家を引いておきながら、小林氏による「友愛」の定義が定まりきらず、氏の裁量次第で何でも取り込むことができる、曖昧なものになってしまう、最大の理由である(注20)。

 従って小林氏の議論は、今後もさらに雑駁かつ「神がかり」的な方向へと傾斜していくだろう。困ったことだが、このような精神主義的で没論理的な思考は、ある種の市民運動の中に着実に根を下ろしているから、冒頭で書いたように、ある程度の需要が確実に存在する。この種の人びとは、学者や知識人を呼んで話を聞くことはするが、自分たちで進んで学習した上で、その内容について議論するということをしない。だから運動方針は結局、一部の中間インテリ層に握られてしまう。そして、この手の中間インテリ層は、社会運動に対して相対的に熱心な人であれ冷笑的な人であれ、自らの文化資本蓄積に空疎なプライドを持っているので、実質的に批判が受け入れられない。また、彼らはよりイデオロギッシュな社会運動(右派・左派を問わない)や新宗教団体には概ね冷笑的だが、ニューエイジ的な自己啓発やオカルティズムを消費することには違和感を持っていない(注21)。こういう現場では、極めて明瞭な形のエリーティズムが確立されやすい。



(注14)『友愛革命は可能か』246頁。しかし「地球連邦」とやらが実現される過程についての具体的プログラムがまったく説明されていないのには驚かされる。まるで小林流「友愛」が全面的に顕現すれば(そこに至る経緯すら説明されていないが)、即座に惑星規模での変革が完了するかのようだ。このような説明に首肯できる人間は、いったいどのくらいいるのだろうか。これはほとんど、モノリスかオーバーロードが突如として出現し、人類を救済するのを前提に、政治について論ずるようなものではないのか。小林氏はマルクスやエンゲルスによる「科学的社会主義」の成果を批判する一方、初期社会主義の再評価を求めているが、フーリエやサン=シモンもここまで「空想的」ではなかっただろう。
(注15)この章で小林氏が、賀川のマルクス主義批判を詳細に解説する一方で、賀川が天皇制に対してとった態度について一言の解説もないことは、なにやら暗示的ではある。小林氏の天皇制に対する立場については後述する。
(注16)『友愛革命は可能か』188頁および204頁。
(注17)小林正弥「『性的リベラリズム』批判」『〈宮台真司〉をぶっとばせ!“終わらない日常”批判』諸富祥彦・編著、トランスパーソナルな仲間たち・著(コスモス・ライブラリー、1999年)。もっとも本書は「日本の伝統」やら「道徳」やらを持ち出して、宮台の援助交際論を批判するような、どちらかといえば保守派の色彩が強い論者が目立つ構成ではあった。
(注18)『友愛革命は可能か』208頁。
(注19)なお、小林氏は、鳩山由紀夫がかつて中曽根康弘から、「愛とか友愛とかって、政治というのは、そんな甘っちょろいものではない。お天道様の陽に当たれば溶けてしまうソフトクリームのようなものだ。政治的なくわだては、ひそかにおこない、ここぞと思うときに、一気に打ち出すものだ」と「酷評」された経緯を紹介しつつ、しかし賀川豊彦による「友愛」の議論を克明に引用して、それがむしろ厳しい「実践の理念」であることが分かるだろうと反論している(125頁)。しかし鳩山は賀川ではないのだから、これは反論の体をなしていない。小林氏が鳩山を賀川の思想的直系に位置づけているならともかく、氏は別の場所で、賀川の思想をクーデンホーフ=カレルギーから鳩山家へ至る、貴族的友愛の系列とは異なるとしつつ、この二者が合流することで「新しい友愛思想と運動が発展する」としているのだから、論理が錯綜していると言わざるを得ない。
(注20)あらゆる既存の信仰から距離をとっているつもりの人が、結局のところ既存の権威を信仰してしまう危うさについては、阿満利麿がその諸著作で論じている。
(注21)筆者の経験から記すならば、たとえば、ある集会の場で役員が、SMAPの「世界でひとつだけの花」をみんなで歌おうと言い出したので、私がいくつかの理由に基づいてそれをやめて欲しいと訴えたことがある。これに対する役員の一人の回答は、概ね以下のようなものだった。「貴方がイヤならばやめるが、私はSMAPが好きだし、そんな意味があるとは思えず、腹立たしい。貴方の言っていることはおかしいと思う」。私は個人的な好き嫌いのことを言った覚えはないし、彼/彼女らの個人的な趣味を云々したつもりもなかったのだが、どうやらその人は徹頭徹尾、個人的な攻撃だと捉えたらしい。公的な文脈における議論が成り立たないのである。また、このようなこともあった。2009年の衆院選で「幸福の科学」が「幸福実現党」として候補者を擁立し、各地に事務所を増やして、街宣活動を活発に行っていた頃、とある「自覚ある市民」が新宗教団体一般を揶揄する発言を盛んに行っていた。しかし私はその人が普段、風水や人相学に言及しているのを知っていた。ちなみにその人物が「自覚ある市民」を自称できる根拠は、選挙となると極右候補者の当選を防ぐべく訴えていたから(しかし同時に共産党や社民党にも投票しないよう注意を呼びかけることも忘れなかった)らしいのだが、その訴えは「世の中にはバカが多くて、ああいうのに騙される人間が多いから、私たちがしっかりしなくていけない」というような、噴飯もののエリート主義であった(実際にはもっと強烈な表現をしていたのだが、書くことが躊躇われたので、これでも少し穏やかにした)。秘教的エリーティズムの心性とニューエイジ志向の親和性の高さを物語る事例と言えよう。なお、このようなドグマの占有感覚は、極右の「偏向メディア批判」にも顕著に見られる傾向であることを最後に強調しておく。
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