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ある「友愛革命」論者の政治哲学から―小林正弥・著『友愛革命は可能か 公共哲学から考える』をめぐって(4)

 では最後に、小林氏のこのような政治的プログラムとさえ言えないような提言が、鳩山政権の実際的諸施策のいかなる評価に繋がるのかを確認したい。私は冒頭で、小林氏がまるで極右が訴えるステレオタイプ化された左派のようだと述べたが、これらの問題についても概ね同様である。

 以下にあげる小林氏の諸見解は、一見して、二大政党政治という制度下における効果的な働きかけのための現実的方策、戦略的な漸進主義に見えるかもしれない。小林氏も、おそらくそのつもりでいるだろう。だが実際には、多くの議論は牽強付会で詭弁じみており、論者の解釈次第で、いかなる体制でも擁護できる質のものである。これは限定的な機会主義といってもいい。限定的というのは、こうした議論をなす人びとが他政党に対してはそうした態度をとらず、民主党に対してのみ、それを行うからである。これは明らかにダブルスタンダードである。これらの人々の、鳩山政権に対する過剰な好意と思い入れは、常軌を逸したイデオロギッシュな判断によるものであり、一定層を越え出る支持は得がたい性質のものだろう。具体的に小林氏の発言を確認していこう。

 まず、いわゆる「政治と金」をめぐる問題については、鳩山に同情的で、小沢にはやや(本当にやや)批判的である(注22)。氏によれば、鳩山の献金問題については「法律違反」と「政治腐敗」を区別すべきであり、鳩山のそれは「さほど公共的な害はなしていない」から「深刻な政治問題ではない」ということになる。公人の「法律違反」は「公共的な害」には当たらないようだ。また、小沢については、小林氏が批判している政治的恩顧主義の残滓が感じられるので問題であるが、首相の問題とは分けて考えるべきであり、また検察の「不適切な権力行使」があるならば問題だと述べている。
 氏によれば、戦前の二大政党制は民主的選挙による政権交代こそ実現していなかったが、それさえも互いの腐敗を攻撃し合うことで政治的幻滅感を広げ、ファシズムの台頭を許してしまったのであり、「政党政治への信頼を失わせない」ことが重視されている(注23)。また、「革命の進行過程においては、常に反革命の嵐が巻き起こるのであり」「フランス革命にしても、革命の闘士がみな清廉潔白であったわけではない。保守系メディアをはじめとする連日の政権批判の陰には、友愛革命の進行を妨げようとする反革命勢力の蠢動を感じる」と、陰謀論へ足を踏み入れている(注24)。
 しかし、ことの是非はおいても、政党政治への信頼など、「無党派」層の数を見れば既に失われていると考えた方がよいのではないだろうか。実際、氏もさすがに政権交代は麻生太郎と自民党への失望によるものだと認めている(注25)。とすると、氏はなんのために鳩山および小沢への批判の矛先を鈍らせようとしているのだろうか。やはり、鳩山内閣が長期化しなければ「友愛」の言論市場における価値が暴落してしまうからだろうか(注26)。私には逆効果に思えるのだが。

 「天皇の政治利用」問題についても、「政権交代が開いた政党政治への幻滅を誘うのではないか」という見解は共通している。小林氏は、天皇自身が意思を実現しようとしたり、あるいは非民主的に成立した政権が天皇を利用したりするならば深刻な事態だが、現政権は民意によって成立しているので、天皇制のルールを変えることには何の問題も無いと言いきっている。この論法によるならば、より天皇の政治的機能を強めるような改革も、「民意によって成立」した内閣が、現行憲法の解釈自体を変えつつ行うならば、問題がないことになる。極めて危うい論理構造なのだが、小林氏はむしろ小沢の言動も、「天皇を神聖化する」ような「精神構造の呪縛から解き放たれる」ための「前進」と捉えている(注27)。呪縛から解き放たれたいならば、天皇制を廃止すれば良いとおもうのだが、先述したとおり、小林氏はそのような議論は採らない。むしろ、天皇を京都に「還幸」すれば、政治権力とも距離が出来て、政治利用の危機も、中国や韓国による日本がファシズム化するのではないかという危惧も減少するだろうという。どうやら氏にとって「天皇の政治利用」とは、具体的に天皇が政治に口を出すことであって、象徴的権能を行使することは全く問題ではないらしい。これは氏がスピリチュアルな絶対的超越性を重視していることと無関係ではないだろう。

 次に、外交政策については、東アジア共同体を志向することで、日米同盟の比重を相対的に小さくすることを訴えている。そしてアメリカが展開する軍事活動に常に追従しないために、短期的目標として「日米安保体制をその元々の姿に戻すことを目指すべき」だという(注28)。どういうことかといえば、なかなかに衝撃的であるが、日米安保体制は日本が米軍に基地用地を提供する代わりに本土を防衛してもらうというものだったのだから、その後の米日軍事活動の一体化を解消するためにも、その段階に戻せというのである。このような要求を現在のアメリカに呑ませるよりは、むしろ米軍基地の総撤退を実現する方がずっと現実的に思える。しかも、ここでは日米の軍事的一体化が中国や朝鮮にとっての脅威ともなるので、それを解消せねばならないと言っているのだが、そもそも米軍基地があること自体が脅威なのではないだろうか。米軍基地を置くのは米日の軍事一体化ではないのだろうか。そして、当面の基地用地はどこに提供しろというつもりなのだろうか。
 また、自衛隊については、彼の「墨守・非攻」の憲法解釈では「合憲」ということになるようだ。しかし中期的な課題としては「国土警備・災害救助・国際協力」の三つの隊に分割し「平和隊に改組」することを訴えている。これは氏も認めるとおり、新党日本の主張に近い。一方で、鳩山が提案したという「自衛艦にNGOの人びとなどを乗せて紛争・災害地域で医療援助活動をする」という「友愛ボート」構想を発展させ、「国際的に平和的な活動を行う「地球的友愛隊」を創設したらどうだろか」とも述べている。どれも言い方を変えればよいというものではないだろうが、特に鳩山の構想は、日本のNGOが自発的に、軍民一体となって世界的に展開していく姿を容易に思い浮かべることができて、なかなか無気味である。

 永住外国人の地方参政権については、「ローカルな友愛という観点からみて望ましい」そうである(注29)。ここは明らかに言葉すくなで、すぐに議論を多文化主義一般へと移している。あまり興味が無いのかもしれない。もっとも歴史的な制度の経緯に関心がないのならば、それは必然的な結果である。おそらく小林氏は、仮に現政権下で外国人参政権に何らかの形で限定がついて実現した際でも、その性格を問わず「限定があるのは残念だが大きな一歩だ」という認識を示して、体系的な批判の必要性を一切認めないだろう。小林氏の議論は相当に突飛な点が多いが、その心性は現代日本のリベラル派と共通している。

 このほかにも問題と思われる発言は多々あるのだが、逐語的に議論していっても仕方がないのでこの辺りで切り上げる。実のところ、小林氏の議論を個別に批判し続けても、あまり意味がないのだ。多くの見解は、ちょっとした思いつきのようなものであって、深く考えて導かれたものではなく、鳩山政権ないしはそれを継承した民主党中心の内閣を取り巻く状況が変われば、また違う見解がすぐに飛び出してくるであろう。先に、限定的な機会主義と評したのは、そういう意味である。
 私が本稿で延々と小林氏の議論について批判を加えてきたのは、幾度か指摘したように、その特異な発想にもかかわらず、氏の議論が現代的なリベラル派の病理を共有したものであると考えたからだ。もちろん、民主党支持者が皆、小林氏のような「神がかり」なものなので良くない、というようなラベリングをしたいのではない。そういう人も少なからずいるかもしれないが、彼らが、これから巨大な支持を得て勢力を伸ばしていくようになることは、おそらく無いだろう。小林氏のような議論は、ある程度の需要はあっても、広範な支持を集めるには、あまりに神秘主義的で、しかもあまりに詭弁に過ぎる点が多いからである。

 しかしながら、小林氏を支持しない人々の間でも、主観的な漸進主義を奉じ、社会的変革に先だって内面の変革を唱える秘教的な発想は概ね共有されているように思える。この問題については、また他の具体的事例をもってさらに論じられねばなるまい。
 私はなにも、内面の問題が重大ではないと考えているわけではない。私自身は、神的な存在に最終的審理を預けるようなことはしたくないと考えているため、宗教者とは相容れない部分もある。しかし、信仰によって、少なくとも主観的に救われる人間がいることは否定しないし、また、宗教がそのような役割を果たしうることも否定していない。イデオロギーは物理的な現象と相補関係にあると考えているから、厳密には唯物論者ではないことになる。
 であるからこそ私は、内面の曖昧さに基づいた、主観的な「善良さ」のみの社会運動には反対する。小林氏の議論に顕著に表れているように、スピリチュアルで非歴史的(マルクス主義については清算主義的ですらある)な発想に基づく政治論は、すべて蒙昧で不誠実なものに終わるだろう。そうした見解は、中長期的にはむしろ政治的幻滅をもたらすことになる。皆がめいめいに好きな側面を見出せる曖昧な政治は、同時に皆が幻滅を味わう場所ともなる。小林氏のいう「友愛革命」は決して成就しない。従って「友愛革命」論者はいつまでも理想主義者として振舞うことができる。しかし人々がそれを聞き続けるとは限らない。より深い幻滅に囚われた人々が、あらゆる政治的変革の可能性を否定し、現状をシニカルに肯定するようになるならば、「前進」など二度と到来しないだろう。



(注22)では民主党で小沢が隠然たる権力を握っていることについてはどう説明されるのかといえば、ここで小林氏はなんと、「聖徳太子と蘇我馬子の関係を思い出す」のだという。「当時の実権は蘇我馬子が握っていたが、聖徳太子はその支持のもとで可能な限りの理想主義的政策を実現させた。同じようなことを鳩山首相には期待したい」(211頁)。これまた恐ろしく雑駁なたとえである。仮にも社会科学者が歴史的事象を引用するならば、もっと精緻な議論が必要だと思うのだが、これもスピリチュアリズムが持つ非歴史的傾向の表れだろうか。あるいは小林氏の思考は、もとからこのような傾向が強く、それがスピリチュアリズムと非常に親和的であっただけなのかもしれない。
(注23)『友愛革命は可能か』169-170頁。
(注24)ここでフランス革命を持ち出しはしても、決してロシア革命は持ち出さない態度だけは首尾一貫している。しかし全体の論理は、より御都合主義的になった。
(注25)『友愛革命は可能か』16頁。
(注26)だが、本書に登場する「友愛」タームの膨大さを考えると、小林氏は自分で「友愛」概念のインフレーションを招いているとしか思えない。適当にページをめくりなおしただけでも、「友愛革命」から始まって、「友愛政治」、「友愛経済」、「日本友愛大革命」、「友愛世界運動」、「友愛共和主義」、「友愛構造改革」、「友愛平和公共国」、「日米友愛連合」、「友愛環境主義」、「友愛福祉」、「地球的友愛税」、「友愛賢人会議」そして「友愛公共哲学」ならびに「友愛公共フォーラム」(2010年2月に発足したらしい)など、「友愛」のバーゲンセールといった感がある。ほとんど「友愛」をつけただけではないかとさえ思える。しかし政治哲学とは本来このようなものではないのではなかろうか。
(注27)『友愛革命は可能か』204-208頁。
(注28)以下、外交・軍事については『友愛革命は可能か』213-221頁より。
(注29)『友愛革命は可能か』201頁。
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