FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

“1968”と現代映画/言論(その1)―『ロストクライム―閃光―』①

 前掲稿において私は、現在の我々を規定している全共闘時代のイデオロギーについて批判的に見直すことを、まず抽象的なレベルで提起した。そこで本稿では、それをより具体的な事例をあげて展開させていく。
 本稿で事例に挙げるのは、2010年夏に公開された映画『ロストクライム-閃光-』である。「三億円事件」に材を採った永瀬隼介の小説が原作、監督を務めたのは伊藤俊也であった。
 伊藤俊也は、1970年代に東映の監督として「女囚さそり」シリーズ3作を撮ったことで有名である。同シリーズは、梶芽衣子演ずる松島ナミが、権力を嵩に着る者たち(たとえば警察官僚など)へ次々と復讐を果たしていくストーリーとなっており、その実験的な撮影スタイルも合わせて、公開当時から反体制的・前衛的なものとして称揚された(注1)。
 こうした作品評価は、伊藤が70年代初頭の東映東京撮影所で執行委員として労働運動に積極的に関与していたことにも起因していよう。伊藤は当時、撮影所の契約下請労働者の組織化を訴え、組合の腰の重さを内部から批判していたからである。
 一方で十年と少し前、伊藤は今一つの作品で幾度目かの脚光を浴びた。1998年、東條英機を主人公とした映画『プライド 運命の瞬間』を監督したことで、一部新左翼の間でさえ「反体制の旗手」としての評価が動揺したからである。この作品をめぐる言論状況には大変興味深いものがあるので、いずれ別稿を期したい。
 それではそろそろ、こうした作品群を経て、十数年ぶりに伊藤が監督した劇映画『ロストクライム』へと話を戻そう。

 『ロストクライム』という映画を一言で表すならば、それは老年を迎えた全共闘世代に向けた、ある種のロマンの物語である。
 本作は、奥田瑛二演ずる定年間際の老刑事が、まだ26歳の新米刑事(渡辺大)を巻き込んで、現在の殺人事件から、過去の三億円事件の真相へと踏み込んでいくという筋になっている。事件の捜査を通して渡辺は、奥田が背負ってきたものを最後にすべて背負わされてしまう。
 この映画では、三億円事件の実行犯の中に警察高官の娘がいたため、その真相が封印されたということになっている。従って、奥田も渡辺も、自身が所属している警察から追い回されることになる。
 奥田は最後に、三億円事件の関与者を次々と殺害(父が事件の冤罪で自殺したことによる復讐)して回る青年記者とともに川の中へ沈んでしまうが、渡辺はすべてを傍観していた警官たちによってただちに身柄を確保され、警察署内に監禁のうえ秘密裏に尋問される。
 ただし奥田は生前、警察から身を隠すために借りていた宿の女将に捜査資料を預けており、彼女が検察へひそかにそれを届けようとするシーンが描かれることで、僅かに真相究明の可能性が匂わされもしている。
 しかし問題は渡辺の方である。こうなってしまうと、たとえ事件の真相が明るみに出ようが、渡辺は以後定年まで飼い殺しにされるか(真相を知っている上司は、事実そのように彼を恫喝している)、あるいは体よく危険な職場に回されて、合法的に「始末」されるのではないだろうか。渡辺は、奥田の生きざまに感じ入ったのか、暴力込みの尋問にも「黙秘します!」と力強く答えていたが、これは奥田のようなリタイア寸前(あと数カ月で定年退職らしい)の老年にとっての、ロマンとしての若者像というものだろう。
 奥田は、死ぬまで自身の「信念」が貫けて大変満足かもしれないが、事後を託され残される人間のことは何も考えていない(注2)。序盤で渡辺が、計画的に奥田に巻き込まれたことを知って「若者の人生、なんだと思ってんだよ」とこぼすのは、極めて正当な「ぼやき」である。しかし、劇中では奥田の強引さは、あくまで魅力を伴った「欠点」として描かれている。

 ところで本作のパンフレットには、粉川哲夫が1968年を解説する小文を寄稿している。粉川によれば、68年は思想やイデオロギーではなく、造反的な世相が重要なのだという。これは、この映画における「1968年」の描き方の評としてはその通りではある。三億円事件は、全共闘系の学生と不良青年たちの結託によるものとされているが、そもそものその動機は、意図的に(映画のパンフレットで監督自身がそう断っている)明瞭にされていない。要するに「造反」は動機ではなく行為そのものが重要だということになる。
 またこの視点は、『ロストクライム』における全共闘運動の描き方にもそのまま対応している。本作ではモノクロームの画面で、全共闘系の学生たちが大学内にバリケードを築き、あるいはヘルメット(ただしすべて白)をかぶって街頭で機動隊と衝突する姿が挿入されている。しかしその動機については語られずじまいである。
 粉川の議論に従うならば、観客は「造反的な世相」を感じ取れば概ね合格であって、その背景にある問題は二の次であるということになろう。だが、こうした気分だけの「造反」に、あらかじめ共感を抱いている観客以外の誰が、理解を示すというのだろうか? こうした表現は、明らかに当初からの同調者だけに向けた自閉的な(「セクト的」といってもいい)ものではないのだろうか?(注3)
 後続世代の人々や、あるいは同世代でも同じセクトにいなかった人々が、こうした気分としての「造反」そのものを嫌悪しても、別段不思議はない。なんらかの客観的な意義が示されないのならば、ふつう少なくとも短期的には自己の利益を損なう「造反」へ共感を、ひいては“連帯”を表明する者など、ごくごく少数だろう。(注4)



(注1)ここではこのシリーズの物語が本当に「反体制的」であったかは、ひとまず問わない。ただしこのシリーズに限らず、70年代東映のセックス&バイオレンス路線の中には、「反体制的」とみなされてきた作品がいくつかあるのだが、こうした評価にはもちろん慎重であるべきだろう。

(注2)ちなみに原作となった永瀬隼介の小説『閃光』(角川書店、2003年)では、奥田が演じた刑事・滝口は死なずに定年退職を迎えているし、渡辺が演じた片桐は警察を依願退職して漁師になっている(なお、片桐の年齢も映画よりも上の32歳と設定されている)。また、三億円事件の真相も解明される余地はないよう匂わされている。従ってこの映画における、老刑事から若手刑事への「信念」の継承とその称揚というコンセプトは、映画化にあたって付け加えられたものであると考えてよいだろう。

(注3)皮肉なことに、全共闘世代に大きな影響を与えた映画監督・大島渚は、山本薩夫の映画『松川事件』(1961年)を、「観客の意識の変革」を促すものではなく、ただ「観客の意識の中に既に存在したものが刺激されて量的に拡大」するだけの、「ヒロポン注射の如きもの」であると、手厳しく批判している(「『松川事件』とその周辺の問題」『映画評論』1961年3月号)。しかし同様のことが、現在の全共闘言説にも言えはしないだろうか。

(注4)もっとも、そもそも本作は「三億円事件」という「造反」が、犠牲者を出さない「きれいな犯罪」と呼ばれながら、実は冤罪をかけられた人々などに多大な被害を及ぼしており、決して称揚できるものではないことを訴えてもいる。すると本作に68年の「造反」のロマンを読み解く粉川の発想そのものが、あるいは彼特有の志向に拠っているだけなのかもしれない。ただし、「造反」という行為そのものへのロマンと、「造反」行為の弊害の指摘とが、矛盾を自覚されないままに同居している感覚は、しばしば全共闘世代の活動家の回想によく表れるものなので、むしろ伊藤俊也の中でもこの二つは整理されず、渾然一体となっているようにも思われる。
スポンサーサイト
プロフィール

zentaitsushinsya

Author:zentaitsushinsya

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。