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男たちの桜田門外 ―テロリスト、あるいは特攻兵士への情緒的共感―①

 先日、ふと思い立って、映画『桜田門外ノ変』を鑑賞した。既に予告編が始まっている時間に劇場に入ったので場内は薄暗く、観客層はよく分からなかったが、時代劇映画にありがちなことで、概ね中高年層が占めていたように思う。中規模の場内に20人近くは入っており、しかも驚いたことにパンフレットが売り切れ中であったから、なかなかにヒットしているのかもしれない。

 私がこの映画を見に行ったのは、いくつかの理由がある。第一には、まず時代劇というものが一種の寓話としての機能を持っており、時として現代劇よりも明瞭に、現代人の思考様式やその限界性までを、期せずして描いてしまうことがあると考えているからだ。また第二には、この映画が「幕末」を描いており、日本の開国と、近代化へと向かう前夜の時代が、現在いかに描かれるのかということにも興味をひかれたのもあった。そして第三には、にもかかわらず、おそらくこの映画は決して褒められたものにはなるまいという確信もあったからである。というのも、この映画の監督が、2005年に『男たちの大和/YAMATO』という、極めて情緒的な「特攻」映画を撮った佐藤純彌だったからである。
 佐藤は東映出身の映画監督であり、これまでのフィルモグラフィーからいっても、どちらかといえば職人的な人物ではある。しかしながら私は、この『桜田門外ノ変』の予告編を見たとき、強い既視感に囚われた。決死の任務を託され、家族と別れて、最後には悲壮に死んでいく、多くの壮年の男たち。そして情感を煽るような音楽と、散らんとする花のモンタージュ。花が桜か梅かの違いはあるものの、そのショットの連なりからいっても、それが散りゆく者のはかなさの表象として用いられているのは明白であった。要するに私は、この映画は幕末版『男たちの大和/YAMATO』なのではないかと思い、そして大層な不安を抱いていたのである。

 驚くべきことに『男たちの大和/YAMATO』公開当時、『週刊金曜日』では、ドキュメンタリー監督の森達也が佐藤と対談し、この映画を「反戦映画」と評していた(注1)。佐藤もそれを否定していないことから、そういう思いが少なくとも主観的には、どこかにあったのだろう。
 以前、この「通信」を執筆することを進めてくれた知人のhakuainotebook氏は、現代日本における特攻隊ドラマの一つの典型的な型を評して「何故主人公は戦局が絶望的になりにっちもさっちもいかなくなった大日本帝国の特攻兵にばかり転生するのか」と、極めて的確で、それでいて皮肉の効いた指摘をしていた。
 『男たちの大和/YAMATO』は、この「転生する主人公」がいないだけで、やはり絶望的な「極限状況」のただなかに置かれた主人公たちの、あらかじめあらゆる脱出口が閉ざされた「悲劇」を、切々と情感に訴えて描くだけの映画であった。しかも結局のところ絶望的な死へと向かう姿が、「新生日本」のための「さきがけ」として合理化されていく様を「悲劇」の形式に落とし込んで描いているとあっては、もはや何をかいわんや、である。森などは「国に殉ずる」という一言には画一化できない様々な兵士の姿が描かれていて「物語がイズムに迎合していない」などと絶賛していたが、実際のところ、その様々な兵士が別に反乱を起こすでもなく動員され、出撃し、多くは死んでいったのだから、そうした差異化に大した意味は無い。かえってそれは、「画一化」された描写よりもずっと、鑑賞者に感情移入可能な兵士の姿を提示しただろう。しかし彼らの赴く先は、概ね「戦死」という形にあらかじめ閉じられており、鑑賞者は批判的に見るのでもなければ、その「悲劇」に涙するくらいしか許されていない。「イズムに迎合していない」どころではない。単に俗情に流されているだけである。

 これと同様の情緒主義によって「幕末」が描かれるならば、おそらく決して面白い映画にはなるまい、という予感が私にはあった。だから正直なところ、足を運ぶのは気が進まなかったのだが、ちょうと都合のよい時間に手近な映画館で上映していることを知ってしまったので、勢いに任せて駆けつけた次第であった。
 結論から言って、私の悪い予感は、より下方に向かって裏切られた。『桜田門外ノ変』は、イデオロギー批評をするまでもなく、ひどく出来の悪い映画だったのである。



(注1)『週刊金曜日』2006年1月6日号。この対談はその後、森達也の対談集『豊かで複雑な、僕たちのこの世界』(それにしても、これもまたなんと情緒的な書名であることか)に採録された。私はそれ以前から森に胡散臭い雰囲気を感じ取ってはいたのだが、この対談を読んだ時点で、この人物を全く信頼しなくなった。森は「人は自分の思想や感情に合わせて作品を消化」するから、「そのリテラシーはかなり微妙」であると述べているが、『男たちの大和/YAMATO』の問題点は、もっと明瞭なものであろう。要するにそのナラティヴが、既に「まっすぐな反戦への意識」などとは言えない解釈によって換骨奪胎され、消化されきっているにもかかわらず、それに佐藤も森も気付くことができていなかったというだけの話である。
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テーマ : 邦画
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